◇パウロはコリントの信徒への手紙一の最後の部分で、福音の中心は、主イエスが復活された出来事にあると告げている。しかし、「復活」を信じることには二つの大きな「壁」がある。一つは、主イエスご自身が本当に復活されたのかという壁。もう一つは、コリントの教会の人々のように、私たちの死からの復活を信じることができるかという壁である(12節)。
◇キリストの復活の出来事によって私たちは、信仰をもって死んだ場合、これまでのように死の力に支配され閉じ込められているのではなく、神様としっかり結ばれているということを明らかに示されたのである。パウロは、自分が「神の恵み」を知らされ、「神の恵み」に生き、「神の恵み」を伝える者とされたのは、死にはもはや支配されておらず、復活の命の希望に生きているからであると述べている(11節まで)。しかし、復活の希望が確約されているこの恵みがあまりにも大きいために、世の人々は受けとめることができず、疑ったり、拒否したりして自分を納得させようとしているのではないだろうか。私たちがこの恵みを信じられるようになるには、やはりその前に、主イエスが担ってくださった十字架の死を思い起こさなければならないのである。十字架の死と復活はセットなのである。
◇死を直視できる人間は一人もいない。しかし、そのような中で主イエスは先んじて私たちの死を死んでくださった。私たちが死の支配から解放された者として生きる道を切り拓いてくださった。この神の恵みを知らずして福音に生きる者とは言えないのである。
◇パウロはキリストの復活がすべてであり、ここに立つことができないならば、教会の存在も教会の働きもすべてが無に帰してしまうと断言する(13-19節)。今月28日に聖霊降臨日を迎える。この地上に生きる者すべてに死と復活によって明らかにしてくださった神様の恵みの御支配を聖霊の働きによって示してくださっている。私たちは復活の希望によって「罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命」を信じる、と告白できることを改めて主に感謝しよう。