2023/10/22「死別の悲しみを知っておられる主」ヨハネによる福音書11:28~44 牧師 古屋 治雄

◇今朝の記念礼拝で、ヨハネによる福音書11章の御言葉が与えられている。28節以下では死んでからもう四日も経っているラザロの墓に主イエスが来られ、「涙を流された」(35節)ことを記している。
主イエスは徹底的に私たちに共感してくださり、寄り添ってくださるお方であって、私たちの悲しみと
寂しさ、やるせない思いを一緒に深く受けとめてくださる隣人として涙を流しておられる。
◇しかし、共に涙を流していたユダヤ人たちが主イエスの涙は最大限の「共感」或いは「寄り添うこと」であって、「死」そのものに関してはやはり手出しはできなかったのだと理解していた。
◇主イエスは「憤りを覚え、心を騒がせて」と、33節に伝えられている。皆がラザロの死に絶望し、涙している中、主イエスは「憤り」をもって墓に向かわれる。死の支配の現実に、主イエスはたち向かっておられるのである。
◇主イエスが皆をラザロの墓に連れて行き、死の現実に封じ込められている墓の前で「その石を取りのけなさい」とお命じになり、さらに、「ラザロ、出て来なさい」と、死者ラザロを呼び出された。
◇私たちは時に墓を開けることがある。召された人たちに名前で呼びかけることもある。それは、共に
地上にあった時を思い起こし、その日々を追憶し感謝の思いの呼びかけである。しかし、主イエスが
なしてくださったラザロの墓でのわざは、死に向かって、死の現実に向かって挑戦し、死の支配を打ち破り、神様の命、復活の命を呼び起こしてくださっているのである。
◇ラザロを甦らせてくださった主イエスは、私たちの中に生きて働いてくださっている。復活の命を与えてくださる主イエスの働きに有効期限はない。四日後であろうが、何ヶ月後であろうが、はたまた何年後であろうが、死別の悲しみになお支配されている人に、主イエスは復活の希望を呼び起こされる。私たちは召された人との新しい関係が備えられていることを信じることができる。
(要約:李 暁静)