2022/01/30 「神の裁きの前に立つ」ローマの信徒への手紙14:1~12 協力牧師 中野 実

ローマの信徒への手紙14:1~12
協力牧師 中野 実

◇人間の歴史には自己正当化、対立、分断、不義、不正が満ちている。時には誠実な人が現れるがそれには限界がある。正しさを求めて法律が作られるが、それも限界がある。地上には完全な正しさはない。正義を求める人が不当に扱われていることを、聖書は知っている(例 コヘレト3:16、4:1)。これは昔話ではなく、現在も変わっていない。

◇パウロはこの手紙の時点では、ローマを訪ねたことはなかった。しかしすでにローマ教会の状況を知っていたと思われる。キリストの体であるはずの教会に、一致できない現実があった。「信仰の弱い人」とは、信仰における熱心さ、深さの程度が足りない人のことを言っているのではない。確信をもって、はっきりした慣習を持っている人々のことである。通常のユダヤ人よりも厳しい食物規定を守っていたり、祝祭日を守ったりしていた。これらはキリスト教信仰の本質ではないものの、教会が一致できない原因の一つであった。ローマ教会にも存在する、この地上の人間の現実に対して、パウロは、イエス様に目を向けさせることで、乗り越る道を示す。

◇私たちは、仲間になってくれる神を求めがちである。しかし父なる神様は、私たちの自己正当化を助けることはなさらない。神様は、私たちの思い通りになる神ではない。裁きたいことは山ほどある。しかし、私たちが裁き主になることはできない。私たちは主の僕、裁き主はイエス様のみである(4、10節)。それはイエス様ご自身が十字架と復活を通して、神様の正しさを示されたからである。

◇十字架においてイエス様は、人間のすべての罪を引き受け、取り除いてくださった。私たちは大胆に歩めるようになった。神様の裁きを積極的に待ち望むことができるようになった。十字架は人間の罪が極まった場であった。復活は、人間の罪に対する神様の勝利の時であった。「終わりの日」は、神様がすべてを正し、立て直す恐ろしい日である。しかし、私たちには救いの完成の日である。私たちの救いは近づいている。励まされて、それぞれの持ち場へと派遣されて行こう。