2022/03/06 「心を一つに、思いを一つに」コリントの信徒への手紙一1:10~17 牧師 古屋 治雄

コリントの信徒への手紙一1:10~17
牧師 古屋 治雄

◇パウロの第1の投げかけは「キリストは分割されてしまったのか」である。しかしキリストが多くの伝道者によって宣べ伝えられていたとしても、福音は一つなのである。伝達者が誰かは問題ではない。福音そのもの、キリストそのかたに目を向ければ、同じ一つの福音を信じることができる。

◇パウロの第2の投げかけは「パウロが、あなたがたのために受難したのか」である。十字架と復活は福音の、いや聖書全体の中心である。神様は創造の主、歴史の主、救済の主、また奇跡行為者でもある。これらは神様のある側面に過ぎない。これらの性質をつなぐ一点、扇の要はイエス様の十字架と復活なのである。十字架は神の弱さであり、これを否定する者がいた。しかしここに私たちの信仰の中心があり、新生の望みがある。

◇パウロの第3の投げかけは「あなたがたは、パウロの名による洗礼を受けたのか」である。「誰から洗礼を受けたか」、は問題ではない。「キリストの名による洗礼」が重要なのである。コリント教会の人々も受洗の時には、それぞれの背景に関係なく神の教会に受け入れられた一体感を経験したはずである。しかし洗礼の感激だけで信仰生活を全うすることはできない。私たちは主の日の礼拝毎にその原点に引き戻され、キリストに生かされる恵みを受けるものとされているのである。

◇教会には人間集団としての側面がある。しかし単なる人間集団ではない。神様が罪人である私たちをご自身にしっかりと結びつけ、自由な生き方をさせてくださる、そういう恵みがいつも注ぎ続けられている。だから私たちは「心をひとつに、思いを一つにして、硬く結び合う」ことができる。イエス様は、私たちのために受難節を歩んでくださるのである。