申命記30:15~20、ローマの信徒への手紙8:16
神学生 川上 敏雄
◇申命記の終わりの約束や指示は、モーセの遺言、つまりこれはモーセの「別れの説教」である。エジプトを脱出後、神様はイスラエルの民にシナイ契約、いわゆる十戒を、その後、荒れ野を40年放浪した後、約束して下さった地に近づいてモアブ契約を与えられた。モアブ契約の内容は基本的に十戒だが、強調されるのはその選択肢と条件である。
◇16節の「神につき従う」がこの契約が満たされるための条件である。モアブ契約では「命」が大切な意味を持つ。それは今生きているという、その人の命だけでなく、子孫に続く一連の命をも指す。「命を得る」という言葉はそれ以上の意味がある。それは心の問題で、心が神を向いていないとき、人間は世俗の過ちに戻る。二つの選択肢がある。一つは「命」で、律法を守る道、心もしっかり神様に「つき従う」道である。もう一つは17節にある「惑わされて他の神々にひれ伏す」道である。アブラハム契約により祝福されてイスラエルの民は神の民とされたが、その祝福を堅く守ることをせず、神様の呪いを受けることになった。
◇それは私達の姿でもある。しかし、イエス・キリストがこの罪を、呪いを一手に引き受けて十字架にかかり、神様の祝福を取り戻して下さった。今を生きる私達にも、神様はテーブルの上に二つの、私たちが選ぶことの出来る物を置かれた。一つはイエス・キリストを固く信じ、後戻りしない道で、もう一つは、誘惑の道である。私達も呪いを選んでしまうことがある。心地よいもののように思える罪の落とし穴である。神様は命の道をとるように強く勧められる。しかし、私達は弱いので、時として誘惑の道をとり、呪いと滅びの道を選んでしまう。
◇モーセは40年の荒れ野の旅の後、ヨルダン川を前に、目的の地に自分は足を踏み入れることができないことがわかったとき、無念さがこみ上げてきたであろう。しかし、自分の民への愛は、自分自身よりも民さえ幸せになればと思い彼らに決断を迫った。イエス・キリストの愛を注がれている私たちも、現代の混沌とした世の中において、常にどちらを取るか決断を迫られている。