コリントの信徒への手紙一1:18~25
牧師 古屋 治雄
◇教会は、神の前に正しく立っているか自己点検する必要がある。その際、聖書に記された初代教会を鏡とすることができる。しかしコリント教会の状況は模範的とは言えない。内部抗争があり、分裂しかけていたのである。そのコリント教会全体に対して、パウロは手紙で勧告している。10節の「主イエス・キリストの名によって」は単なる枕詞ではない。取り除くことができない言葉なのである。パウロが語る言葉は、人間の善意や老婆心から出る言葉ではない。信仰の中心から出ているのである。
◇パウロはコリント教会の人々をどこに立たせているのか。他ならぬ、キリストの十字架の前に引き出しているのである。分裂抗争の事態は、神様が悲しまれる、好ましくないことであるというだけでなく、十字架を空しくしているのである。12節に挙げられたパウロやアポロら指導者たちの名は、この人たちが率いるグループが争っているのではなく、その権威を利用して自分の主張を正当化する人たちがいる状況を示している。
◇「ユダヤ人はしるしを求める」とは、圧倒的、奇跡的な力を発揮するかたこそが真の神であり、その神を信仰する立場である。また、「ギリシア人は知恵を探す」とは、世界の理を統合する、真の知恵を得ることが信仰であり、自分はそれをすでに得た、と自慢するような立場である。しかし彼らの「栄光の神」の理解からは、神の子が十字架に死んでくださる、そのようなことはあり得ないことになる。その結果、十字架の理解は弱まり、十字架を信仰の周辺に追いやることになったのである。
◇パウロは改めて十字架を指し示す。「あり得ない」ではなく、「実際にあった」のである。事実、パウロは復活のイエス様に出会い、「なぜ私を迫害するのか」という声を聞いたのである。決定的真理がここにある。この世の知恵で歩むなら、それは滅びの道である。私たちがイエス様を見捨てるとしても、イエス様は私たちをお見捨てにならない。そこに神の力が示されている。愚かに見えるが十字架を捨てず、そこに留まる。そこにこそ力がある。