2022/04/10 「茨の冠をかぶる王」マタイによる福音書27:27~31牧師 古屋 治雄

ー棕櫚の主日ー

マタイによる福音書27:27~31
牧師 古屋 治雄

◇4月10日棕櫚の主日に、群衆が棕櫚の枝を手にしてエルサレム入城する主イエスを大歓迎した。彼らは主イエスを力に満ちた英雄のように、自分たちをローマ帝国から解放してくれる王として期待していた。彼らは主イエスの本当の御心を知らずに一方的な自分たちの期待を主イエスに投げかけて括弧つきであったが、「歓迎」の意を表した群衆であり、その中には意気投合していた弟子たちもいた。

◇しかし主イエスが自分たちの期待に応えてくれないことが判ると、彼らは今度は主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ。自分たちの期待と願望に支配され、このことに気づけない人間はこういう行動をおかまいなくとってしまう。

◇主イエスは十字架上でそれらの行動を黙して身に受けてくださっている。主イエスは、無理矢理、茨で編んだ「冠を頭に載せ」られたのだが、実は茨の王冠を被せられたのではなく、自らのご意思でその茨の冠を被っておられたのだ。主イエスは間違いなく「ユダヤ人の王」として十字架に挙げられた。

◇ヨハネによる福音書のこの場面に重なる箇所には、罪状書きに書くのを憚って「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書き改めたいと願い出るのだが、ピラトはどういうわけか、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(ヨハネ19:22)と、申し出を拒絶している。ピラト自身の思い考えを越えて、主イエスが茨の冠をかぶる王であることが証しされている。

◇私たちは主イエスが十字架に挙げられていく出来事にふれる度毎に気持ちが重くなり、暗くなる。特に受難週に集中して主イエスの行動と取り囲む人々の行動に目を向けるとき、改めて主イエスの沈黙とそれに対して人々が活発に主イエスを囲んでうごめいていることに気づかされる。主イエスは人間の根強い罪の力に負けて死なれたのではない。人間の罪の力に勝利してくださった神様の御支配を私たちにお示しくださった真の王メシアとなってくださったのである。