2022/04/24 「自分を誇るのではなく、主を誇る」コリントの信徒への手紙一1:26~31牧師 古屋 治雄

ー復活節第2主日礼拝ー

コリントの信徒への手紙一1:26~31
牧師 古屋 治雄

◇イースターは婦人たちからペトロをはじめとする弟子たちへ広がり、のちに、彼らは復活の証人として信じる者たちと一緒に教会の歴史をスタートさせた。その教会の存立と活動の原点はイースターによって、主イエスの復活の出来事を与えられ、新しい命に生かされていることにある。その後、教会を迫害していたパウロが加わって、ユダヤ人の枠を越えて、すべての人々に主イエスの復活の出来事を福音として宣べ伝えるようになった。

◇コリントの教会はパウロの伝道によって生まれ、成長した。しかし、同時に、教会の中にいろいろなことが起こってしまったのである。このことは1章 17 節、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」に示されている。

◇パウロはコリント教会の人々へ「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」と語った。ここで、パウロは十字架による神の救いの出来事は、人間的な知恵とはまったく反対の神の知恵が働いていると語っている。人間的な知恵は自分を誇ることへ誘導する、自分自身を誇り、自分自身に栄光を帰すように働くのである。これに対して十字架に示された神の知恵は私たちの「義と聖と贖い」となってくださる。

◇教会生活に限らず、私たちが信仰をもって生きるとは、自分を誇るのではなく、自己中心的になってしまう者のために十字架に架かってくださった、私たちの「義と聖と贖い」になってくださったキリストを知る者とされることである。私たちは、もはや自分を誇ることから解き放たれ、主を誇る者へと変えられた。復活の主が私たちをそのように導き、力づけてくださるのである。