コリントの信徒への手紙一12 : 1~11
牧師 古屋 治雄
◇ペンテコステのできごとは、普通でないことのように思われる。弟子たちだけでなく大勢のユダヤ人が、さまざまな言語で神様の大いなる業を賛美していた。見ている人たちにも、はっきりとわかったのである(使徒2:1~13)。神様への賛美は、酒に酔ったり、単なる熱狂でできることではない。理性的な、人格的なことなのである。聖霊を受けた人は霊の人に変えられ、神様を賛美する人となる。それは個人的なことに留まらず、群れ全体のことでもある。
◇コリントの教会の問題点の一つは、聖霊を受け、異言を語るような特別な業を行うことの熱心さを競う傾向である。自分ひとりで「これをやっている」と誇示し、他の人の業を認めようとしないことは、神様を悲しませることである。パウロは「いろいろな働きがあるが根は一つの聖霊である。」と言う。霊は一人ひとりに分け与えられたからである(使徒2:3)。聖霊に与ることで人は、それぞれの個性が生かされる。しかしバラバラになってしまうのではない。聖霊は絶妙な調和をも与えてくださる。皆が聖霊を受けている、そのことを互いに知り合っていく、これがキリストの体としての教会である。その事実を再発見するときに、一人一人の固有性ということが改めて浮かび上がって来るのである。
◇主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2:7)。私たちの内には神様とつながる霊的なものが与えられている。その霊をもって神様は、イエス様の出来事を通して救いをお示しくださった。私たちは救いの業を喜び、福音に生きる決断をし、内なる霊をもってこの恵みにお応えしていくのである。
◇聖霊は、私たちに判断力を与え、生涯にわたってイエス・キリストの救いの出来事に応えて生きていく、主イエスを救い主として信じて生きていく者に変えてくださる。キリスト者の群れは、定員オーバーということがない。神様はこの群れの中に新しい人々を遣わしてくださる。私たちはそのことを喜び、神様の働きに参与していくのである。 (要約:太田 好則)