2022/08/14 「わたしについ て来なさい」マタイによる福音書4:18-25 信徒伝道者 李暁静

マタイによる福音書4:18~25
信徒伝道者 李暁静

◇ペトロたちはイエス様に従う前に、すでにイエス様の教えを聞き、御業を見ていた。しかし、彼らは依然として、漁師であった。イエス様は彼らをご覧になり、彼らの人生の船に乗り込んでこられた。「わたしについて来なさい」と言われたので、彼らはすべてを捨て、イエス様に従うことができた。

◇イエス様に従うことは、必ず捨てることが伴う。何も捨てない、それは何も変わっていないことと同じである。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。聖書が言うこの捨てるとは、自分を捨てる、自分に頼って生きる、自分が自分の人生の主であることを捨てることである。自分を捨てることの難しさ、つらさは、誰もが体験している。自分を捨てることは痛みが伴う。これは私たちの十字架である。

◇私たちが呼び掛けられたのも、召されたのも、全く一方的であった。イエス様は私たちを呼んでくださり、自ら私たちの人生の船に乗り込んでくださった。イエス様は私たちに私たち自身の小さな十字架を背負わせてくださり、そして、ともに背負ってくださっているからこそ、私たちは自分を捨てることができ、ついていくことができる。イエス様について行くその先は、言うまでもなく、永遠の命、天の国である。

◇イエス様はペトロたちに、「わたしについて来なさい」と言った後に、「人間をとる漁師にしよう」と言われた。これは、召命の言葉である。この言葉は献身者、牧師になる人達、伝道師、教師だけにかける言葉ではなく、イエス様はご自身についてくるすべての者に対して、「人間をとる漁師にしよう」と語られる。イエス様の声になって、福音を宣べ伝えることである

◇福音は良い知らせである。良い知らせは、知らせることによって、良い知らせになる。これから私たちはここから出て、それぞれの場所に遣わされていく。イエス様についていく者として、良い知らせを知らせる者として、歩んで参りたい。