2022/10/16 「罪の赦し」マタイによる福音書6:12 信徒伝道者 李 暁静

信徒伝道者 李暁静

◇主の祈りは、教会、信仰者の祈りである。しかし、他人の罪の赦しを祈れない時もある。

◇罪とは、神様の願い、神様の御心に逆らって、自分勝手に生きることである。罪は、本来私たちと神様とのきわめてよかった関係を破壊するものである。私たち信仰者は自分が罪人であることを知っている故、罪の赦しを経験した故、心から「わたしたちの負い目を赦してください」を祈りたい、祈り続けたい。

◇しかし、罪の赦しは神様と自分との関係だけで成立するのではない。私たち人間同士の間でも、平和の関係が必要である。イエス様は、罪の赦しを経験した私たちに、まず、互いに赦し合い、隣人、兄弟の間で、平和の関係を築きなさいと教えられる(マタイ5:23?24)。

◇罪の赦しの祈りを祈る時、私たちは自分の罪を見つめることができる。赦せない罪にとらえられている自分と出会う。赦されているのに、他人を赦せない自分自身の罪深さを知ることができる。また、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られ、私たちの罪を赦してくださったイエス様の贖いの恵みを思い起こし、神様の恵みを見つめることができる。

◇罪の赦しの祈りは、「天の父よ、今日も私たちの罪を赦してくださり、ありがとうございます」という感謝の祈りである。「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」という決意の祈りである。「どうか赦せるように助けてください」という願い求める祈りである。

◇しかし、それは、私たちは祈るだけでよい、ということではない。私たちは、神様に罪の赦しを求めながら、まず行って、自分に恨みを抱いている人に、小さな「ごめんなさい」を言うことができる。イエス様は罪の赦しを求める私たちのこの小さなごめんなさい、小さな赦しから、私たちを本当の赦しへ、罪からの完全な解放、自由へ、平和へと導いてくださる。

◇罪の赦しを求めつつ、他人の罪を赦す決意をもって、十字架の恵みを見つめて、ともに信仰の道を歩んで参りたい。