コリントの信徒への手紙一10:1~13
牧師 古屋 治雄
◇パウロは読者に、イスラエルの先祖がシナイ山で律法を与えられたことを思い出させる。律法は、積極的に受け止めるなら、私たちに、家族、隣人と分かち合う真の自由を与えるものである。しかし民の歩みは直線的に自由へと向かうわけではない。その道筋には繰り返し、大きな試練が迫ってきたのである。
◇私たちの人生にも試練がある。自分にも、家族にも、自然災害や、人からの被害がある。どう乗り越えるかは切実な問題である。しかしパウロが語っているのは、そうした個人的な試練ではなく、もっと大きな、神様を捨てるような試練のことである。シナイ山に登ったモーセがなかなか帰ってこないので、民は勝手に金の子牛を作り、神として拝むようになっていた。戒めに反した民には裁きが臨む。私たちが神様から離れ、神様が見えなくなり、忘れてしまう時、何も信じなくなるのではない。他の物を神とするようになる。「偶像」はモノとは限らない。お金や名誉である場合もある。また自分自身を神としてしまうことも多い。
◇パウロは、こうした先例を挙げてコリント教会の人々に警告を与えている。コリントの信徒たちも福音により自由にされた。だが自由を履き違え、福音から離れ、滅びの道を歩んでいる者がいる。福音を無力化する力が働いているのである。しかしこの力は、キリストが十字架によって滅ぼしてくださった。すでに克服されているのである。イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と言ってくださった。私たちはもはや、いかなる力によっても、イエス・キリストから引き離されることはない。このことを確信することにより、私たちの個々の試練の受け止め方が変わる。私たちは、イエス様の救いを確信することで、「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と祈りつつ、この世の旅路を安心して歩むことができるのである。