コリントの信徒への手紙一10:23~11:1
牧師 古屋 治雄
◇「すべてのことが許されている」。この繰り返しは6章にも出て来る。口癖のようにこの言葉を繰り返す人々がコリントの教会内にいたのだろう。この人々は、自分たちがすべてのことから解放されており、全くとらわれがないと主張する。だが、パウロはこれに警鐘をならす。キリスト者とされた私たちは、キリストの体とされているのだから、自由について責任がある。キリストによって互いに造り上げられることで、福音に生きる者の姿、教会の姿を表すように促されている。
◇10章冒頭でパウロは、偶像礼拝への警戒を呼びかけている。それに関連して、偶像に供えられた肉を食べてよいかどうか、これがコリント教会の直面する問題である。慎重な人は、市場で買った肉や、招待された先で出された肉でさえ「偶像に供えられた肉だったらどうしよう」と怯える。パウロは詮索せず食べなさい、と勧める。しかし、誰かが「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら食べてはならないと言う。ここに矛盾はない。このように言う人の良心のために、自分の自由を、自分のためにではなく、他者に仕えるために「自由に」発揮する、それがキリスト者のありかたである。そうしてこそ、互いに造り上げられ、成長させていただけるのである。
◇今、阿佐ヶ谷教会にも様々な課題がある。コロナの危機、高齢化、財政、伝道力の減退、100周年……多くの困難、課題があり、それに対して具体的な取り組みが求められている。しかし、耐えられない試練はなく、逃れる道が備えられている(10:13)。この「逃れる道」は単なる迂回路ではない。困難を貫いて行く時に与えられる突破口なのである。自分の自由を、自分のためにではなく、他者に仕えるために「自由に」発揮する時、イエス・キリストによる新しい光が差し、神の栄光を表す道が開かれる。私たちは確信に満たされて、新しい道を歩むのである。なんと素晴らしく、光栄なことであろうか!