ー待降節第 1主日 礼拝ー
マタイによる福音書7:21~23
信徒伝道者 李 暁静
◇イエス様を主と呼ぶことは、信仰告白である。しかし、イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われる。この言葉だけを聞くと、口先だけではなく、行いも必要だと、理解しても仕方がない。
◇しかし、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって、奇跡をいろいろ行ったではありませんか」という者たちに対して、イエス様は「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われる。
◇主の御名によって行うことは、神の御業であり、隣人のため、神の国を宣べ伝えるためである(ルカ9:1-2)。しかし、これらの者たちはそれを自分の業にし、誇り、他の人を救う神の御業を自分のために使ってしまった。
◇「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)救いは私たちの行いによるのではなく、神の賜物である。神の栄光以外に、何も加えることができないものである。
◇天の父の御心は、神の意志である。私たちが生きていることは、肉の意志に従って生きるか、それとも神の意志に従って生きるか、どちらかである。肉の意志は罪の意志であり、肉の意志に従って生きるなら滅びる。イエス様は、私たちに、神の意志に従って生き、天の父の御心を行い、永遠の命の道を選びなさいと語る。
◇私たちは聖書、説教の御言葉、礼拝を通して天の父の御心を知る。そして祈ることによって、天の父の御心を求めることができる。御言葉を聞き続ける、御心を求め続けることこそが、天の父の御心を行うことである。
◇この大勢の人たちの姿は私たちの姿でもある。イエス様の言葉を重く受け止めなければならない。もうすぐ、クリスマス。救い主が私たちのところに来られたことの本当の意味を、思い巡らし、御心を求め続けて歩みたい。