コリントの信徒への手紙一 11:17-22
牧師 古屋 治雄
◇先週の新年礼拝で、私たちは神様に養われ る羊の群れとされている、という御言葉を聞 いた。本日の聖書箇所は、一見すると、私た ちの気持ちを削ぐかのような御言葉である。
◇Iコリント 11 章 17~34 節でパウロは、「主 の晩餐」に係わることを述べる。当時コリン ト教会は、主の日以外にも、週日に誰かの家 に集まって夕べの食事を共にする機会をもっ ていた。今日の私たちの聖餐式のように、パ ンを食し、杯を飲むという形はまだ確立して いなかった。
◇3そこでは、早くから来て食べ、ぶどう酒を 飲み始める人がいる一方、遅れて来た人々に はもう食べものがなくなっているということ が常態化していた。このように配慮がない中 で、主イエスが新しい契約として聖餐の恵み をお示しくださったことを正しく受けとめら れるわけがない。それはパウロが言うように 「神の教会を見くび」っているのである。
◇私たちも、恵みによって主の晩餐を開くこ とが許されている。ここに取りあげられてい るコリント教会に対する問いかけは、私たち に向けられた問いでもある。主イエスが十字 架にかかり体を裂き、血を流し、命を捧げて くださったその尊い死の意味を、教会が一つ の群れとしていつも正しく受けとめている か、配慮しあって教会生活をしているか、その ことが私たちに問われている。今日のパウロ の言葉で言うならば、一緒に集められて主の 晩餐に与る者とされていることに、教会の一 致が現されていると受けとめるべきである。
◇主イエスは言われた。「わたしには、この 囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊 をも導かなければならない。その羊もわたし の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊 飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ 10:16)。私たちの教会が礼拝に招かれ、聖餐 へと招かれている群れであることを感謝し、 主の名によって建てられているすべての教会 が、主によって一つの群れとされるように主 に願い、共に祈ろう。