コリントの信徒への手紙一 12:1-211
牧師 古屋 治雄
◇12 章に入り、パウロは霊の賜物の注ぎについ て語る。私たちが聖餐の恵みに与り、イエス・ キリストという幹に繋がる枝とされるとき、私 たちに霊の賜物が豊かに注がれる。それは、家 庭生活を営む時、社会で働く時も、私たちを活 かす力となるのである。この賜物は、個人的な ものではなく、教会に結ばれている者に注がれ
◇私たちは、信仰生活に入る前と後でどう変わ っただろうか。教会に行くようになった、聖書 を知った、他者を思いやれるようになった、な どがあろう。パウロの着眼点は少し違う。偶像 は言葉を発しないが、聖書の神様は言葉で呼び かける。私たちは神様と言葉を交わすことがで きる。人となった神の御言葉であるイエス様 が、私たちに神様を現わしてくださるのである。
◇私たち人間は、聖書の言葉を活ける神の言葉 として聴くことがなかなかできない。そこでイ エス様は、神の国の到来をはっきりと示すしる しとしていくつもの奇跡を行われた。神の言葉 は出来事となるのである。
◇人々は奇跡行為者としてのイエス様に期待を 寄せるが、しかしイエス様は十字架の死を遂げ られた。人々の理解は誤りだったのである。そ してイエス様はその十字架の死から復活され た。ここにこそ、神様の救いの恵みがある。イ エス様を信ずる群れが起こされ、そこに聖霊の 力が注がれるのである。
◇3 節でパウロは自身の回心を想起しながら語 っているように思われる。十字架に死んだイエ スがメシアだと信ずる者の群れがあることを、 パウロはユダヤの伝統の中で理解することがで きない。だからイエス様を「見捨てられよ」と 確信して断言しクリスチャンを迫害したのであ る。しかし彼は聖霊を受けて変えられ、「十字架 にかけられたイエスこそ真のメシアである」と 語る者とされた。う。
◇私たちも十字架と復活のイエス様を知り、聖餐 の恵みに与る時、一つとされ、霊の賜物を受け る。それぞれの賜物は異なっても一つの霊を共 に受け、キリストにしっかりと結び合わされてい る。そして私たちは、神様の輝きを現わす群れ となるのである。