◇改革者は、聖書は「福音の生きた声」であると語った。聖書の文字は肉声とされ、それを聞く教会によって再演されるのを待っている。阿佐ヶ谷教会の99年の歴史を支え、導いたのは、息づき、うごめき、恵みをもって襲いかかってくる神の声である。そのとき私たちは、「見よ、新しいことを私は行う」との神の声を心に刻み直す。マタイは、福音書の最後に御子イエスの声を書き留めた。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。福音書の最後から、御子の声を世界に響かせたのだ。神の子イエス・キリストが・私たちと・共に・おられる。ここに最も新しいことがある。
◇主が「共におられる」とはいったいどのようなことだろうか。1979年2月。教会の歩みに陰りが見え、教勢が減少し、信徒たちから不満といらだちの声が聞こえる中、左近淑先生は礼拝説教でこう語った。「阿佐ヶ谷教会の栄光の時代は去った。…しかしそれなら、祝うべきものはないのか。いや、こうした悩みと苦しみの日にこそ、背きと強情の私たちを背負う神の姿がはっきりする。神の額の玉の汗が見えてくる。私たちは、その神をこそ祝う」。主イエスは言われる。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。その時、私たちにいったい何が見えてくるか。私たちに忍耐し、愛し通す主のお姿以外にないではないか。教会の栄光とは、ただこの主の十字架の栄光にある。
◇死と罪と暴力に勝利し復活した主は語る。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」。主は逃げ去った弟子たちに「だから、お前はいらない」とはおっしゃらない。世界の王、私たちの主イエスは言われるのだ。「だから、行け。私と共に荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせよう」。今日、私たちは主イエスの肉声を聞く。「私を捨てた者たちよ。背きと強情の者たちよ、さあ、私と共に生きよう」。