2023/02/26 「主にあって、喜びを」マタイによる福音書9:14~17 信徒伝道者 李暁静


『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか』。イエス様は言われます。
婚礼は人生の最上の喜びと祝福の時であります。イエス様はご自身がその婚礼の中心にいる花婿であ
り、ご自身が人々と一緒におられる時、それは婚礼のような祝福の時である、喜びの時であると語られ
ます。
この御言葉を聞き、神様と共に生きる、イエス様と親しい交わりの中に生きるクリスチャンの特徴は
喜びである、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」、今日の招きの言葉のよう
に、神様は、私たちが、救いの恵みを喜び楽しむことを願っておられる、望んでおられることを改め
て、気づかされるのです。

  1. 断食
    『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか』、このイエス様の言葉を引き出
    したのは洗礼者ヨハネの弟子たちです。
    今日の個所の直前の出来事ですが、イエス様は徴税人マタイを弟子にし、彼の家で、他の徴税人や罪人と一緒に飲んだり、食べたり、楽しんでいる、どんちゃん騒ぎをしているところを、ヨハネの弟子たちは見たのです。彼らはイエス様とその弟子たちのその姿に驚き、「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と、このようにイエス様に問い詰めたわけです。
    ユダヤ人たちは信仰生活に心にかけていることが三つありました。今ヨハネの弟子たちが提示された断食と祈り、施しです。これらのことを実践することは、神の民の義務だと、ユダヤの人たちはこのように受け止め、そして、まじめに守ってきました。
    この断食について、旧約聖書のレビ記には、年に一度の大贖罪の日が断食すべき日として定められています(16:29-31)。そのほかには、特に決まりはありませんでした。ユダヤ人は自発的に断食を行っていたようです。
    断食は人々が神様に心を向けるための手段、祈りに集中するための手段であって、神様の啓示を受
    ける心の準備であるのです。ですから、断食という行為は、神様の前に立つ人間の敬虔な行為でなければならなりません。
    しかし、時代と共に、その断食の回数は次第に増え、年に一回から数回へとなり、イエス様の時代
    になると、ユダヤ人は週に 2 回も断食を行われるようになりました。そして、この神様に心を向けるため、祈りに集中する手段としての断食は、いつの間に神様の救いを得られる大事な手段、しなければならない信仰行為である。自分の罪のために、断食しなければ敬虔な信仰者ではない。このようになってしまったのです。
    ヨハネの弟子たちも敬虔なユダヤ教徒であって、彼らの言葉のように、「私たちとファリサイ派の
    人々はよく断食している」、彼らはユダヤ人の慣習をまじめに守り、また先生であるバプテスマのヨハネに倣い、自分の罪を悲しみ、嘆き、禁欲の生活をしていました。この断食はその禁欲生活の一つでもあります。
    もちろん、ヨハネの弟子たちの断食はファリサイ派の人たちの断食と違います。洗礼者ヨハネはファリサイ派の人たちを「蝮の子」と呼び、彼らの偽善を厳しく責めました。
    ファリサイ派の人たちのように、断食の行為を誇り、人々に見せるために断食する、自分の功績にかぞえるために断食するという考えはヨハネ、そして、彼の弟子たちにはもちろんありませんでした。けれども、断食は神様の救いを得られる大事な手段である、しなければならない信仰行為である。自分の罪のために、断食しなければ敬虔な信仰者ではない、この考え方はファリサイ派の人たちと同じです。
    ヨハネの弟子たちは自分たちが敬虔な信仰者であることを自覚し、一所懸命努力し、自分の罪を覚
    え、自分の罪を見つめて、自分の罪に悲しみ、悔い改め、禁欲の生活に頑張っていました。
    それゆえでしょうか。自分たちはまじめにやっているのに、同じバプテスマヨハネから洗礼を受けたイエス様とイエス様の弟子たちは、自分たちと一緒に行動しないだけではなく、断食もしない、それどころか、むしろ汚れて、けしからんと言われても仕方のない人たちと食べたり、飲んだり、歌ったり、楽しく宴会をしていることに対して、「なんということだ」と、こういう気持ちでイエス様に「私たちはしているのに、どうしてあなたたちはしないのか」と、責めたのです。
  2. イエス様の答え
    ① 花婿
    イエス様はこのヨハネの弟子たちの問い詰めに対して、きっぱりと答えられます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。
    イエス様の時代の人たちは今私たちのように、食べ物に困ることなく、たべたいものはいつでも、いくらでもたべられるのではなかったのです。それゆえ、ユダヤ人の結婚式は、いつも収穫が終えた時期に行われます。仕事がないゆえ、誰でも参加するができるからです。新郎新婦の両親は、この結婚式のために、一年前から、もっと前からかもしれませんが、ぶどう酒や、ごちそうを用意します。その時になると、村人全員を招き、盛大なパーティー、婚宴を催し、人々は花婿と花嫁と一緒に、食べたり、飲んだり、喜びを共に味わい、この婚宴は一週間も続くと、そのように伝えられています。
    イエス様は、ご自身はこの喜びの中心である花婿である、ご自身が人々と一緒にいる間、それは婚礼の祝宴のような喜びの時である。花婿がおられる婚宴に、誰が、「私は悲しんでいるから食べない、私は断食しているから、喜べない」、そんなことを言えるはずがない、出来るはずがない。悲しみは、喜びの祝宴にふさわしくないのだと。そう言われているのです。
    イエス様はヨハネの弟子たちが提示された悲しい断食に対して、全く対照的な喜びの婚宴をもってぶつけたのです。
    福音書を読みますと、バプテスマヨハネは自ら禁欲の生活をし、人々に悔い改めを迫り、厳しい悔い改めの説教をなされました。悔い改め運動を起こしました。しかし、イエス様は人々に悔い改めることを迫っていません。人々に断食して、神様の赦しを乞いなさい、あなたは悔い改めが足りない、もっと自分の罪を見つめて、自分の罪に悲しみなさいと、そういうことを一切言われませんでした。
    今日の個所はイエス様の奇跡物語の真ん中に挟まれています。今日の個所の前に、イエス様は重い皮膚病を患っている人を、百人隊長の僕を癒し、ある多くの人を癒し、また悪霊に取りつかれた人を、中風の人をいやされた話が並んでいます。そして、今日の話の後、ある指導者の娘、自分の服を触った女、二人の盲人を、口の利かない人が癒された話があります。
    イエス様はその人たちに罪を悔い改めることを要求していません。何もできない、寝たきりの中風の人に、「あなたの罪が赦された」さえ、言われておりました。弟子たちが嵐に遭われたときもそうですが、イエス様は信仰の薄い弟子たちに、悔い改めなさいと、そんなことを一切言われませんでした。
    私たちも同じです。私たちは自分の罪をしっかりと認識したから、しっかりと悔い改めたから、洗礼を授けることができた、罪が赦されたのではないのです。私たちは悔い改める前、神様の赦しがすでに私たちにありました。十字架の出来事は 2000 年前に既にあったのです。罪の赦しの恵みはすでに私たちの前に差し出されていました。罪の赦しは先行の恵みであるのです。
    ですから、今日の話が、これらの物語の真ん中に置かれていることは、それは私たちの目の前に神の国の祝宴が開かれている、私たちは招き入れられている、もう自分の罪をばかリ見つめる、自分の罪を悲しむのではなく、「あなたの罪は赦されたのだ、喜びなさい」。イザヤ書 62:5 節にこのような言葉があります。「あなたの神はあなたを喜びとされる」、あの放蕩息子の父親が帰ってきた息子を喜ぶのと同じ、私たちが神様の招きに答え、祝宴の席に着いているのを見て、この私を喜ぶ神様を見るのだ、このことです。
    救いの恵みは神様から、一方的に与えられるものであって、私たちの力、私たちが断食しているかしていない、何回しているか、どれだけ深刻に悔い改めているのか、そんなことに全く関係ありません。罪の赦しは私たちの力に全くよりません。一滴もよりません。私たちの罪は、神さまに 16 万 4 千年分の借金をしているようなものです。人生が何度あっても返しきれない、私たち自分の力で、どうすることもできないものです。私たちの罪は、御子が死ななければ贖うことができないほど、重いものです。
    ですから、神様の罪の赦しは私たちが悔い改めたから、一週間に二回も断食したから得られるものではないのです。私たちはただこの救いの恵を受け入れる、イエス様の招きに答える、その食卓に着くだけなのです。
    しかし、だからと言って、私たちは断食を軽んじてしまうことはできません。
    15 節の後半ですが、「花婿が奪い取られる時が来る。その時、彼らは断食することになる」。「花婿が奪い取られる時」とは、それは言うまでもなく、イエス様の十字架の時を指しています。その時、イエス様を失い、途方に暮れていた弟子たちは当然断食したと思います。使徒言行録にも、イエス様の弟子たち、のちに使徒となった人たちは、伝道に出かける時、断食を行ったことが記されています。ですから、断食は心を神様に向ける、祈りに集中するための有効手段である、神様の恵みを覚える手段である、このことは、昔も、今も変わることがありません。私たちは神さまを見失ってしまったとき、むしろ断食すべきではないでしょうか。
    今私たちはイエス様の受難を覚えて受難節の中を歩んでいます。私たちは断食しませんが、私たちはイエス様が私たちの罪のために成し遂げられた、この十字架の恵みを覚えて、心を少しでも神様に向けることができるように、こうして、謹んで歩んでいるのです。私たちはイエス様が十字架で死んでくださった、この出来事を悲しむのではなく、この全く神の国の食卓にふさわしくない私たちが、この喜びの祝宴に、最高の喜びの祝宴に招かれ、花婿イエス様と共にこの食卓を囲みことができる、この幸いに感謝し、「私を喜ぶ神」を覚えるのです。受難節はそのために設けられた期間であると思います。
    新しいイエス様の話は、ここで区切ってくれば、今日の説教もここで終わることができますが、しかし、イエス様の話はまた続きます。
    16,17節です。「誰でも、おりたての布から布切れをとって、古い服に継ぎを当てたりはしな
    い。新しい布切れが服を引き裂き、破れは一層ひどくなるからだ。新しい葡萄酒を古い革袋に入れる者はいない。そんな事をすれば、革袋は破れ、葡萄酒は流れ出て、革袋もダメになる。新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」。
    イエス様の時代の人たちは葡萄酒を木の樽の中に入れて発酵するのではなく、革袋に入れます。ですから、新しいぶどう酒を古く、弾力性のない革袋に入れたりしたら、古い革袋がその膨張の力に堪えず、破れてしまいます。新しい布切れと古い服も同じ意味です。
    イエス様は御自身が来られたことによって始まった時代を新しい時代である、ご自身がもたらすこの喜びの福音は爆発的な力を持っている、新しい福音であると言われています。この新しい時代には、旧約の時代の古い信仰生活、断食をしなければならない、何かをしなければならない、そういう信仰生活ではなく、新しい信仰生活に変える必要がある。御自身がもたらすこの喜びの福音には、古い信仰生活と相容れない、と言われるのです。
    この新しい信仰の在り方、新しい革袋は、形のあるもの、器、人間が定められた様々な規定、規則ではありません。形あるものは、いずれ古くなります。革袋は革袋にすぎません。
    その新しいぶどう酒を入れる新しい革袋は、それは私たち自身のこと、私たちの教会です。新しい信仰の在り方は、それはイエス様がもたらすこの新しい、喜びの福音に合う信仰の在り方のことです。新約そのものです。私たちは、イエス様の十字架の死と復活によって、この前代未聞の喜ばしい福音によって、この喜びの祝宴に入れられ、新しく神様と結ばれ、この新しい契約のもとに生きる者とされたのです。この新しい契約の下で、神様との交わりの中で、私たちはイエス様の喜びの福音にふさわしくされていくのです。

    偉大な宗教改革者ルターは、こう言います。「キリストは生き、私は洗礼を授けられる。キリストは悲しみや死などの神ではない。悲しみ、死などは悪魔である』聖書にしばしば『喜びなさい』と言われます。私たちの救い主イエス・キリストは喜びの神様です。
    「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。私たちの信仰生活は、ただこの花婿キリストと共にいる、私を喜ぶ神様と共生きる、カチカチではなく、力を抜いて、乳飲み子のように、すべて神様の力に委ねる、このことにつきます。
    主にあって、喜びを、主にあって祝おう。受難節を覚え、救いの恵みに感謝しつつ、喜びの福音に生き続ける者でありたいです。

*この日は教会のインターネットの調子が不調だったこともあり、途中からの配信となっております。