2023/03/05 「神の愛を現す群れとなる」コリントの信徒への手紙一 12:31b〜13:13 牧師古屋治雄

今日はこの第一コリントの 13 章の御言葉が与えられています。教会で結婚式を挙げた方で式次第にこ
の御言葉が紹介され、教会に通っている人も、日頃教会に来ていない人もこの「愛の讃歌」とも言われて
いるこの聖書の御言葉を聞いてきた人は大勢いると思います。
7 節までの言葉はキリスト教独自の愛の理解というより、一般的にも愛についての教えとして通じる
内容ではないかと思います。
とりわけ 4 節以下をみると「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを
忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(4−7 節)と語られています。結婚式の場面では、
これから共同生活を始めようとする夫婦が相互に信頼し合い、馴れ合いになってしまわずに、生活して
いく上でとても具体的な指摘であり、勧告であると誰もが思うでしょう。この御言葉が朗読される結婚
式に出席している人にとっても、すでに何十年も経っていても改めて自分たちの夫婦の関係また家庭生
活の中にこういう愛の関係が成立しているかが問われる時ともなっているのです。
この 13 章の御言葉は、独特のまとまりをもった愛についての勧めとなっていますが、パウロが当時結
婚式を想定して語ったものではありません。12 章の一番最後の「そこで、わたしはあなたがたに最高の
道を教えます」と語って 13 章に繋がっているように、パウロはコリント教会の現状をふまえ、その人々
全体に呼びかけている言葉です。ですからここでパウロが愛について語っているのは、個人的な人間関
係の中で覚えることとしてではなく、教会の中で受けとめるべき言葉として語っていることに目を向け
なければなりません。この 13 章の先 14 章へと進むとそのことがはっきり語られていて、教会の人々に
呼びかけ、繋がっていることが分かります。
順番にみていきたいと思いますが、まず 3 節までには「たとえ〇〇があり、〇〇を行っても」という
言い方が連続して出てきます。「天使たちの異言を語」ること、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあ
らゆる知識に通じ」ること、「山を動かすほどの完全な信仰を持ってい」ること、さらに「全財産を貧し
い人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と、これらはどれをとっ
ても簡単にできることでなく、私たちからすると、篤い信仰から出てくる行為であり、それだけで価値が
あり神様に喜ばれることではないかと思われるのですが、パウロはそうではないと断言しています。こ
れらすべてにもしもそこに「愛がなければ」一切無益で、「騒がしいどら」「やかましいシンバル」に過ぎ
ない、と。
パウロは一見して信仰的にすごいことをしていると思えることをキリストに救われている者として深
く掘り下げて語っています。それは、これまでもみてきましたが、コリント教会に自分の霊的賜物を誇
り、同じ賜物をもっていない人を見下していた現状があったからでした。12 章の終わりのところからパ
ウロはそのことを問題視し、すでに多くの霊的賜物を受けている人であっても、まだ受けていない賜物
があること、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と注意勧告をしていま
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した。自分がその賜物を発揮することに汲々とするのではなく、なお受けるべき賜物がある、いや多くの
賜物を与えられている人ゆえにさらに受けなければならない賜物がある。それは、神様に私たちが愛さ
れていることに気づく信仰と言ってよいでしょう。
私たちはもしも他の人が持ち合わせていない賜物をもっていたらきっと嬉しくなります。そして自分
は特別だと思う思いが湧き上がってきます。そして知らず知らずのうちに自慢したくなり、気をつけて
いないとそういう自分に気づくことができなくなります。
神様は私たちの言葉と行いを生み出す私たちのこころの底の真実を見抜く方です。イエス様がユダヤ
人指導者たちの一見すると信仰深い行動を見抜いておられたことがマタイ福音書 6 章に伝えられていま
す。施しをする場合あえて人目につくように会堂や街角で、ラッパを吹いて注目をあびようとして行っ
ていたことや、祈りにおいても人にみてもらうように会堂や大通りの角に立って祈ろうとしていたこと
を主イエスは見抜いておられ、神様への行動となっておらず、人へのアッピールに過ぎないことを断罪
しておられます。
3 節の「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」という箇所についてですが、元の言葉を人文字替
えると「焼かれるためにわが身を引き渡しても」と読むことができます(聖書協会共同訳他)。これは殉教
の死を意味する内容となりますが、殉教の死さえもそのことによって周囲の人々に愛を注ぐ思いがない
ならば、それは無益だと断じているのです。徹底して最終的な動機がどこにおかれているのかを問う姿
勢が貫かれているのです。
パウロはここで「わたし」を前面に出して語っていることにも注目させられます。むしろ「愛」という
ことに関してですから、一般論として語る方が重々しい言葉になるでしょう。しかし、パウロはそうでは
なく、自分を前面に出して「わたしが騒がしいどら、やかましいシンバル」3 節の最後も「わたしに何の
益もない」と語っています。教会の中で華々しくみえる働きを競い合うような風潮があるなかで、それら
の人々に当てつけるように語っているのではなく、自分に引き寄せて自ら戒めるように語っているので
す。
4 節以下で、教会の中に限らず広く人間関係で愛する関係が活きているところでは、ここに書かれてい
る具体的また身近に思える行動に私たちは納得させられます。ねたみ、自慢すること、失礼なことはしな
いこと、いらだたないこと、これらのことは愛し合う関係が絶たれてしまった結果生じてくるものであ
るとは大変耳の痛い言葉です。
ここも個人的な倫理としてというよりパウロは、コリント教会が一つになれなくて様々な問題を生み
出してしまっている、教会が犯している罪と捉えています。キリストの愛を受け、キリストの愛を証しし
ていく共同体とされていることが教会の人々に受けとめられていないゆえに問題を生み出してきたから
です。一部の人はここをコリント教会の人々への当てつけのようにとる人がいますが、実はそうではな
く、パウロはコリント教会の一人ひとりの中にこれらの愛の実践ともいえることが実現されるであろう
ことを展望して呼びかけているのです。
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しばしばこのコリント前書 13 章で愛が語られている箇所をキリストに置き換えて読んでみると、この
箇所がよく理解できる言われています。8 節以下に進むと、主の教会にはキリストの愛が注がれているゆ
え、人間的な積極的な営みであってもまた逆に、神様の栄光を汚すようなことがあっても、そのキリスト
の愛は廃れてしまうことなく、完結すると約束されています。
私たちの教会生活は私たちめいめいにとってもまた教会としてもコリント教会と同じように弱さをも
ち、罪の中に迷い込んでしまうことがあります。しかし、教会生活をしている者には神の愛が注がれてい
います。パウロはローマの信徒への手紙 8 章で、私たちがいかなるものに支配されそうになってもキリ
スト・イエスにおける神の愛から私たちを引き離すものはないことを語っています。今日のパウロの言
葉の 12 節に「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようには
っきり知ることになる」と語っていることも、私たちに注がれている神様の愛は、教会生活を与えられて
いる信仰者たちの歴史を完成へと導いてくださっていることを告白しています。なお私たちは地上での
実際の教会生活を行い、担う役割が与えられていますが、神様の愛に支配されていることを確信してこ
の受難節を過ごし、新年度に向かいたいと思います。