◇バプテスマのヨハネはイエス様の先駆けとして、神様から遣わされた預言者である。彼は、誰よりもイエスが来るべき方、救い主であることを知り、救い主の到来を待望していた。しかし、彼が期待しているメシア、救い主とは、悪に対して厳しい裁きを行うお方であった。
◇ヨハネはイエス様の活動、出来事すべてを牢の中で聞いていたが、自分が期待しイメージしていた裁きの業を行うメシアではなかった。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」ヨハネのこの問いには疑い、失望の響きが聞こえる。彼は信仰の試練に出会い、イエス様に躓いた。
◇イエス様はヨハネに、御自身がメシア、キリストであり、『私に躓かない人は幸いである』と語られる。「私に躓く」この言葉は、信仰が挫折する、失敗するという意味の言葉である。そういう意味でこの言葉を読むと、「信仰が挫折しない人、失敗しない人は幸いである」となる。
◇揺るがない信仰は理想的な信仰であるが、私たち罪人には、それができない。『私に躓かない人は幸いである』この御言葉が信仰の挫折も失敗もしない人が幸いである、という意味であるなら、私たちは誰一人として救われない。この御言葉は裁きの言葉、呪いの言葉になってしまう。
◇そうではなく、たとえイエス様に躓いたとしても、イエス様を尋ね求め、信じ続ける人、失望に飲み込まれない人は幸いである、という祝福と招きと励ましの言葉なのである。
◇信仰は戦いである。この戦いは私たちの力では勝てない。イエス・キリストのみが勝利することができる。私たちができるのは、ヨハネに示されたように、自分の疑い、失望をそのままイエス様に投げ出して、「あなたを信じたい。助けてください」と、イエス様を尋ね求めることである。その時、私たちにはイエス様の招きの言葉、祝福の言葉が聞こえ、イエス様の十字架が見えてくる。信仰の道を歩み続ける力を得て、幸いを得るのである。