◇疑うとは、心が二つに分裂しどっちつかずの状態になることである。信仰とは、合理的判断を越えて神様に絶対的に依存することである。
◇弟子たちは、墓が空であったという女性たちの証言を聞いても信じていない。エマオに向かっていた二人の弟子たちにイエス様が現れてくださり、パンを裂いてくださったとの証言を聞いても信じていない。イエス様が自分たちに現れてくださって、焼いた魚の切り身を食べる姿を見ても信じていない。そんな彼らにイエス様は声をかけられる。思い切って意訳すると、「あなたがたは、まだ信じることができていないようだが、前に言っておいたとおり、私は苦しみを受けて、十字架にかかって、死んで葬られたが、確かにこのように復活した。そのことがあなた方の目の前で起こっているのに、これを見てもまだ信じないのか」。そして「弟子たちの目を開かれた」。小さな言葉だが、イエス様は弟子たちの心を全開にして、「旧約聖書全体が、イエス様の十字架と復活を預言しており、その預言は必ず成就する。その業によって信じる者は救われる」ということを全員の心の中に注ぎ込んでくださるという大きな業だったのである。
◇この福音は、イエス様の名によって強力に拡散され、世界中に伝えられる。私たちはそれを伝える者にされる。イエス様が約束された聖霊は、私たちを衣服のように包むと同時に、私たちの内に入って、私たちの力となって働いてくださる。復活から四十日目、イエス様は天に昇られる。その姿を見た時、弟子たちはもはや疑いの弟子たちではなく、イエス様の復活とその力に信頼することができるようになっていた。
◇神様は人間を、「主を賛美するために」創造された(詩編102)。弟子たちはエルサレムの神殿で、昼夜を分かたず、いつも、賛美していた。感謝する群れへと変えられた。私たちにとっても、礼拝にあずかり、恵みを一つひとつ感謝することが最もふさわしい神様への奉仕なのである。