2023/05/28「酒に酔っているのではなく、聖霊に導かれて」
ルカによる使徒言行録2:22~28 牧師 古屋 治雄


◇50日祭のため世界からエルサレムに集まってきたユダヤ人が見たものは、弟子たちの上に舌のような、炎のような聖霊が降り、様々な言語で語り出したことであった。酒に酔っているのか、単に霊的に高揚しているのかと人々はいぶかしむ。そうではない。はっきりと理解できる言葉で、イエス様を復活させられた神様の偉大な業を讃美している。聖霊によって新しく生きることができると、私たちは知るのである。
◇聖霊により新たにされたペトロは、異言というよりも預言(つまり説教)を語り始めた。イエス様の十字架と復活は、私たちの死からの解放と復活の約束であること、終わりの時(崩壊の時という意味ではなく、完成の時)に、主の名を呼ぶものは救われる。その道がイスラエルに限らず、すべての人に開かれていることを、復活の証人として語る。
◇当時、ユダヤ人は捕囚から解放されたものの、その歩みは苦しみに満ちていた。苦境を打破してくれる超越的な神の力の介入を期待し、ダビデのような強い王を待望していた。イエス様にもそうしたメシア像を重ねる者も多かった。使1:6以下の問答は噛み合わない。復活の事実とその恵みは、弟子たちが期待する政治的な意図をはるかに超えているからである。ペトロは「ダビデは死んだ。イエス様は死んだが復活された。」と対比して語る。イエス様は、私たちが復活の証人となり、永遠の生命の約束を宣べ伝える者となることを確言される。人間の望みは、ダビデ的な力で神の国の完成を願うのではなく、復活で死の支配を滅ぼしたイエス様を信じることで永遠の生命に入れられる希望へと変えられなくてはならない。
◇聖霊降臨の出来事から教会が生まれた。ペトロは聖霊の注ぎを受け、語るべき証の言葉を受けた。イエス様の復活によって永遠の生命の希望に生きることができるという、新しい言葉が私たちにも与えられている。私たちも、たとえ拙くても、聖霊の力をいただいて語ることができるのである。 (要約:太田好則)