◇安息日には何の働きもしてはならないというのがユダヤ教の戒めであるが、この日イエスは何の問いかけも説明もなく、ただ女性を呼び寄せ、彼女もそれに従い、そしてすぐに「女よ、あなたは病から解放された」と言って手を置かれた。するとたちどころに病が治り、女性は神を崇めた。原文にある「解放された」とは、完了形である。つまり、癒しの業は、もう既に完了していたのである。
◇ところが、ここで論争が起こる。安息日にイエスが人を癒やされたことに腹を立てた会堂長が、群集を叱責された。喜びと賛美の声が溢れかえることこそが相応しかったはずなのに、戒めに忠実である振りをし他者を批判するという行いに、イエスは「偽善者たちよ」と言われた。そして、この時まで誰も彼女のことを顧みなかったことにも問題があるだろう。自分の傍らにいる隣人のことを、つい見過ごしてしまいがちな私たちも、今問われている。
◇「アブラハムの娘」とイエスが言われたのは、「選ばれた民である」と自負しているユダヤ人の、歪められた民族としての誇りを批判し、この女性は隣人とされるべきだと示すためであった。自分たちと同じ、アブラハムの救いの約束にあずかるべき隣人への労りの心を忘れたとき、主イエスの周りにいた人々は大切なものを見失ったのである。目の前で神の国が始まっていても尚、見失うのである。主は、病に苦しむ女性を救うためだけに来られたのではない。この安息日の礼拝と、そこに集う全ての人々を救うために来てくださったのである。
◇主イエス・キリストは約二千年の時を経ても尚、今ここにいてくださり語ってくださっている。そしてそれを聞く私たちを、用いてくださる。主イエスがなさった御業と、ごく小さな礼拝から始まった神の国の歴史は今も続いており、私たちそれぞれがその担い手として用いられている。そのことを感謝して歩み、「主よ、顧みてください」と隣人のために祈る者でありたい。