◇ロンドン博物館ドックランド館には衝撃的な展示がある。18世紀、奴隷船の船底に奴隷を縛りつけ一度に400人も運んだ、という記録である。英国は西アフリカで奴隷を狩り、カリブ海・メキシコ湾岸でサトウキビを栽培させ、砂糖を本国に持ち帰って午後のお茶を楽しんでいた。今日の箇所を表面的に読んで、聖書がこうした大規模で組織的な奴隷制度を肯定している、ととらえるのは誤りである。アメリカで組織的な奴隷制度が法的に撤廃されるのは20世紀末であり、テモテへの手紙が書かれたのは1世紀である。この手紙を読んだ教会の指導者たちが「クリスチャン奴隷よ、蜂起せよ」などと言ったなら、それは単に反乱として鎮圧され、多くの犠牲者が出たことだろう。
◇この手紙は「奴隷たちよ、おとなしくしていろ」と言っているのでもない。もっと積極的に、奴隷が愛をもって主人に仕えれば、その愛が主人を変えて行く、愛にはそういう力があることを信じることができる。支配されている者も、支配している者も、新しい世界、愛にあふれる世界を目指すことができると教えている。主人が信者であればなおさらである。観念的な平等主義ではなく、愛をもって仕えあう、という動的な関係こそ、神様が望んでおられることである。愛をもって仕えあう関係をあなたから始めなさい、と勧めている。
◇4~5節で著者はニセ教師たちに辛辣な言葉を浴びせる。議論のための議論は高慢に過ぎない。高慢と正反対の言葉が敬虔である。これは正しく神様と向き合い感謝することである。聖書は利潤を求めてはいけない、と言っているのではない。貪欲、つまり神様に感謝することを抜きにしてカネ、カネと欲望することが、人を信仰から迷い出させるのである。私たちは永遠の生命に招かれ、神と会衆の前で信仰を告白して洗礼を受けた。これこそが最大の利得である。教会から離れては永遠の生命は与えられない。教会に留まりつつ、教会の内外で愛の業に励もう。