◇この宮清めと言われる出来事は、「ユダヤ人の過越祭が近づいた」(13節)時、エルサレム神殿で起こった。
◇ エルサレム神殿にしても、大事に受け継がれてきた過越の祭の伝統にしても、ユダヤ人にとって、それは生ける神様に出会うためのものであり、また、神様にまみえ、感謝と畏れの思いを新たにして生きていくという信仰が、新たにされる時である。しかし、神殿を大切に思い、過越の祭の伝統、礼拝形式だけを大切にしても、神様を畏れ、神様の現臨に与ることにならないことが起こり得る。ここに信仰生活の盲点が潜んでいる
◇今日の個所で、主イエスは、神殿や礼拝に係わる諸習慣を大切にすることと神様ご自身を大切にすることがしっかり結びついているかを問うておられる。別な言葉で言うと、神殿を大切することや礼拝儀式を大切にすることと、神様ご自身を大切にすることがバラバラになってしまっていると指摘しておられるのである。
◇私たちの信仰生活は、年に一回けじめとして「神様」なる方に初詣し、「神様」に挨拶して一年過ごす、そういう「信仰生活」とは違う。毎週、主の日に神様の前に出て、神様の現臨に触れ、神様の生ける言葉を求めて聞き、私たちもまた心の底にある声を神様に向けて発して祈り、日々神様と共に生きるのである。ここで、「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである」(21節)と、建物としての神殿の意味はもはや消え去り、主イエスの十字架の死と復活の出来事こそが新たな神殿であると教えられている。
◇もしも私たちが、このように神様が来てくださった意気込みを知らず、神様の現臨に触れることなどまったく眼中にない「信仰生活」を送っているならば、主イエスは、あの宮清めの激しさをもって私たちに迫って来られる。
◇2024年、私たちに親しく出会ってくださり、私たちを導いてくださる主に感謝し、この年を歩み抜く者となるように。