2024/04/07「主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」 詩編136:1 牧師 古屋 治雄

◇新年度の標語として詩編136編1節が与えられた。この詩編はイスラエルの歴史の節目節目で歌われた賛歌である。イスラエルには苦難があった。しかし神様が恵みをもって解決してくださった。歴史が後退することなく前進してきた。阿佐ヶ谷教会が創立100周年を感謝することの根拠がここにある。100周年記念誌の発行が準備されている。これはこの10年だけでなく、百年全部を振り返ろう、感謝しようという企てである。ヘブライ人への手紙は「私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(12:1)」と呼びかける。私たちもまた、先人と共に恵みを受け止めてこの標語聖句を告白するのである。

◇神様に感謝しつつ、神様を畏れつつ歩むのがキリスト者の生き方である。しかし私たちはしばしば、畏れることを忘れてしまう。詩編106編にも平行箇所がある。13節や14節に現れているような悪が行われた。教会の主日の礼拝は、神様への感謝とともに、共同体としての罪の告白をし、キリストのとりなしを信じて、捧げ続けているのである。詩編107編にも平行箇所がある。贖われた人々とは信仰共同体のことである。主イエスはまず、弟子たちを通して恵みを与えられた。弟子集団を一つにして愛し抜かれた。神の贖いの群れ、これが教会である。人間は失敗を繰り返すが、神は私たちをあわれんで、契約の義務をご自身に課せられたのである。神の救いが教会を通して行き渡る、そのようなものであるからこそ、関係を修復する神の恵みに立つことができるのである。

◇私たちは贖いの主イエスに、慈しみを祈る者とされている。決してうなだれない。約束はいまだ完成していないが私たちは主を見上げて、主がやがて来られることを確信しよう。私たちはとこしえに慈しみに生きることができるのである。