◇先週私たちは長老任職式を行い、本日は CS教師、聖歌隊、礼拝奏楽者の任職式を行った。阿佐ヶ谷教会に結ばれている私たちがそれぞれ神様から与えられている賜物を活かし、主の働きを担う者とされている。ロマ書12章でパウロは、キリストの体を具体化するために一生懸命それぞれの賜物を発揮するように呼びかけ、第一コリント12章では、弱き枝々を相互に覚え合うことの大切さを語っている。
◇先週私たちは長老任職式を行い、本日は CS教師、聖歌隊、礼拝奏楽者の任職式を行った。阿佐ヶ谷教会に結ばれている私たちがそれぞれ神様から与えられている賜物を活かし、主の働きを担う者とされている。ロマ書12章でパウロは、キリストの体を具体化するために一生懸命それぞれの賜物を発揮するように呼びかけ、第一コリント12章では、弱き枝々を相互に覚え合うことの大切さを語っている。
◇本日与えられたヨハネによる福音書5章に伝えられている出来事は、ベトザタの池を囲む回廊における、主イエスと38年間も病気で苦しんでいる人との出来事である。ここに集まっている人々は皆、自力では生活できない人々で、「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである」(5:3b-4)とある。ここで38年間も病気で苦しんでいた人に主イエスは目を留められ、深い洞察を持って接しておられるが、「良くなりたいか」と、意外な言葉を語っておられる。病に苦しむ男の人は、自分を池の中に入れてくれる人がおらず、ほかの人が先に降りてしまうのだと訴えた。病気の苦しみに加えて自分が孤独であること、自分のことを案じてくれる人がいないことを主イエスに向かって吐き出しているのだ。ぎりぎりのところから発したこの人の言葉を聞くと、主イエスは間髪を入れず「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われた。瞬時にこの人の絶望感をお受けとめになって、救いの力、解放の力を注いでくださったのだ。主は私たちが暗い現実の中で横たわっているしかない時も、そのことを知ってくださり立ち上がらせてくださる。そしてその「床」を身に抱えながら新しく歩み出すことができるようにしてくださる。私たちにそういうお働きを惜しみなく与えてくださっていることに改めて感謝したい。◇先週私たちは長老任職式を行い、本日は CS教師、聖歌隊、礼拝奏楽者の任職式を行った。阿佐ヶ谷教会に結ばれている私たちがそれぞれ神様から与えられている賜物を活かし、主の働きを担う者とされている。ロマ書12章でパウロは、キリストの体を具体化するために一生懸命それぞれの賜物を発揮するように呼びかけ、第一コリント12章では、弱き枝々を相互に覚え合うことの大切さを語っている。
◇本日与えられたヨハネによる福音書5章に伝えられている出来事は、ベトザタの池を囲む回廊における、主イエスと38年間も病気で苦しんでいる人との出来事である。ここに集まっている人々は皆、自力では生活できない人々で、「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである」(5:3b-4)とある。ここで38年間も病気で苦しんでいた人に主イエスは目を留められ、深い洞察を持って接しておられるが、「良くなりたいか」と、意外な言葉を語っておられる。病に苦しむ男の人は、自分を池の中に入れてくれる人がおらず、ほかの人が先に降りてしまうのだと訴えた。病気の苦しみに加えて自分が孤独であること、自分のことを案じてくれる人がいないことを主イエスに向かって吐き出しているのだ。ぎりぎりのところから発したこの人の言葉を聞くと、主イエスは間髪を入れず「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われた。瞬時にこの人の絶望感をお受けとめになって、救いの力、解放の力を注いでくださったのだ。主は私たちが暗い現実の中で横たわっているしかない時も、そのことを知ってくださり立ち上がらせてくださる。そしてその「床」を身に抱えながら新しく歩み出すことができるようにしてくださる。私たちにそういうお働きを惜しみなく与えてくださっていることに改めて感謝したい。◇本日与えられたヨハネによる福音書5章に伝えられている出来事は、ベトザタの池を囲む回廊における、主イエスと38年間も病気で苦しんでいる人との出来事である。ここに集まっている人々は皆、自力では生活できない人々で、「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである」(5:3b-4)とある。ここで38年間も病気で苦しんでいた人に主イエスは目を留められ、深い洞察を持って接しておられるが、「良くなりたいか」と、意外な言葉を語っておられる。病に苦しむ男の人は、自分を池の中に入れてくれる人がおらず、ほかの人が先に降りてしまうのだと訴えた。病気の苦しみに加えて自分が孤独であること、自分のことを案じてくれる人がいないことを主イエスに向かって吐き出しているのだ。ぎりぎりのところから発したこの人の言葉を聞くと、主イエスは間髪を入れず「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われた。瞬時にこの人の絶望感をお受けとめになって、救いの力、解放の力を注いでくださったのだ。主は私たちが暗い現実の中で横たわっているしかない時も、そのことを知ってくださり立ち上がらせてくださる。そしてその「床」を身に抱えながら新しく歩み出すことができるようにしてくださる。私たちにそういうお働きを惜しみなく与えてくださっていることに改めて感謝したい。