◇ガラテヤの信徒たちは律法の束縛から自由へと呼び出された、とパウロは言う。呼び出されたのだからそこで神様の御心を聞くことになる。神様の御心とは「隣人を自分のように愛しなさい」の一句に要約される。「愛しなさい」の根拠は、神様が私たちを愛しておられることにある。詩編23編は、私たちには何も欠けることがない。私たちの杯を溢れさせてくださると歌う。神様は、私たちに必要なものを必ず与えてくださる。だから、その感謝の反映として、私たちも他者に与えることができるのである。
◇私たちには洗礼を受けた時にイエス様の霊が与えられている。それは4章が証ししている。この聖霊を無視して自分勝手に生きることはできない。パウロは「肉の欲望を満たすようなことをしてはならない。むしろ霊によって歩みなさい。」と教えている。私たちに望むことができないようにするために、肉的な望みが、霊なる神様に逆らっている。しかし霊に導かれているなら、その人の人生は、律法を全うしていることになるのである。
◇19節からの悪徳リストは、地上的な望み、聖霊を否定する行為である。こうした行いをする人は天国に行くことができない。しかし、悔い改めるなら、神様は豊かに赦してくださる。喜んで、祝宴を開いてくださる。22節からは徳目リストである。だが行うことは難しい。しかし、キリスト者は、地上的な望み、神様に逆らう性質、こうしたものを一切合切、イエス様の十字架の上で滅ぼして頂いた。聖霊の望みが肉の望みに勝利したのである。私たちはなお、その解決への途上にあるが、自分のしたいことと神様の御心の一致へと招かれている。自由に、誰にでも仕えることができるようになる道が開かれているのである。徳目リストの筆頭に愛がある。神様からの愛で心を満タンにしていただくなら、私たちは日々、少しずつ愛の人へと進歩させていただくことができる。その方法は、聖書を読み、祈ることである。