2024/05/19「主イエスから霊的な力を受けて生きる」使徒言行録 2:36~42  牧師 古屋 治雄

◇聖霊降臨日の出来事で誰に聖霊が注がれたのかはっきりしている。それは弟子たちであった。人々は「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」(2章7節)と驚いた。
◇その50日前と更にその前に起こった主イエスの十字架の死を多くの人々が知っていた。しかしユダヤの安息日の翌日に起こった主イエスの復活はエルサレムの住民にまったく知られていなかったと言っていい。マタイ福音書によると、祭司長たちは主イエスの遺体がないと判ると、弟子たちが盗み出したことにした。しかしガリラヤに逃げようとしていた弟子たちは復活の主と出会い、恐れを喜びに変えられ、主イエスが甦ったことを証言する使徒へと再創造された。
◇この不思議な変化はまだ弟子たちとその周辺の人々に留まっていた。しかし主の復活から50日目のこの日、使徒たちを代表してペトロが「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)と人々に大胆に呼びかけた。主イエスを十字架に追いやった時の群集心理が再現しておかしくない場面だが、人々は「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」(37節)と告白し、三千人もの人々が聖霊の導きで洗礼を受けた。ここに教会が生まれた。聖霊降臨日は、神様の前で自分の生き方を気付かされ、神様により新しい人間に造り変えられた出来事にほかならない。
◇聖霊降臨日のこの日、私たちの生活、日本の社会、地上の世界は神様によって一つとされているか? さまざまな闇と死の支配と不安を思う。教会生活を送る私たちも疲れを感じ、がっかりすることもある。そのただ中に今朝の御言葉が与えられている。私たちのために十字架で死に、復活して新しい命を注いでくださっている主イエスに望みを置いて生きていこうという思いが私たちの中に起こっている。主の教会である私たちに注がれている聖霊の導きに応答して、歩んでいこう。
(要約:打方 真樹)