◇初の宇宙飛行をしたガガーリンが、「地球は青かった。見回しても神は見当たらなかった。」と言ったことで、神様がどこにおられるのか論争が起こった。神様は空や宇宙におられるのではなく、私たちが見ることのできない領域におられる。神様にとってこの宇宙はペットボトルの中のようなもので、私たちから見れば突然、驚くようなしかたで、暮らしの中に関わって来てくださる。
◇12~14節は、神様の大きさを語る。神様はご自身の手のひらのわずかな窪みの中に、世界の水という水を集めてしまうことができる。ラテン語版聖書は「神様は、地球でさえ、3本の指でつまみ上げることができる」と訳す。ご自身の深い知恵で、きちんとすべてのものを測って、正しい秩序の内に置かれたのである。
◇15~17節は、人間の小ささを言う。一つの国民であっても、バケツの中に残った水の一滴に過ぎないし、それが天秤の一方に乗ったところで、天秤を傾かせることもできない。人間とはそういう存在である。レバノンには豊かな森林があった。だが、神様に動物犠牲をささげようにもそこに住む動物たちも、燃料としての森林も、取るに足りない存在である。
◇キリスト者は、洗礼を受けて、その時に心の内に聖霊をいただく。その聖霊によって、私たちは神様を知ることができる。また神様は、聖霊を通して、私たちを知っていてくださる。祈りの時に聖霊なる神様がここに働いてくださらなければ、私たちの祈りは神様に届かない。
◇今日から始まる「教会の半年」、私たちの阿佐ヶ谷教会にも全体修養会をはじめ、さまざまな計画がある。これら教会の業の一つひとつが聖霊に導かれていなければならない。神様の御心は聖霊により、祈りによって与えられる以外に、私たちには知るすべがない。神様の御心を求めることなく進んでしまえば、全く誤った方向に進んでしまう。心の内にいただいている聖霊によって、神様にしっかりと結びつけられて歩んで行こう。