2024/06/30「キリストが私の内に」ガラテヤの信徒への手紙2:15~21 牧師 中野 実

◇人間の歩みは禍の歴史と思うほど、厳しい現実が私たちを取り巻いている。私たちは死と滅びへと向かっているのだろうか。しかし私たちキリスト者は神の子とされ、教会は神の民として召し出された。何故だろうか。
◇神はこの世界を良いものとして造られた。世界がどんなに御心から離れてしまっても、死から命に至る救いを与えられていることは、今やイエス様においてはっきり示されている。私たちにはそれを伝える使命がある。
◇しかし神の民とされている私たちの現実は福音を担うにはあまりに乏しく弱い。信仰がしばしば自己正当化や他者を軽んじる道具にされている。私たちは常に御言葉によって、古い自分が砕かれなければならない。そんな経験をしたのが使徒パウロである。教会の迫害者であった青年サウロはダマスコに向かう途上、イエス様と出会い、古い自分が砕かれる経験をして、新しい人生を歩み出す。
◇罪は人間存在の最も深いところでのボタンのかけ違いであり、人間は自分の力では乗り越えられない。パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだ」(2:16)と知った。私たちを愛し抜き、命まで献げてくださった神の子イエス・キリストの真実によって、私たちは義とされた。その途方もない恵みに感謝し、イエス様を信頼することが私たちの信仰である。その歩みはもはや私たちだけのものではない。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(2:20)。
◇しかしキリストと共なる歩みはこの世の価値観と全く違う。「私はキリストと共に十字架につけられました」(2:19)。十字架は恥と弱さと苦しみである。共に歩む私たちも負うべき十字架が与えられている。その歩みは負け組しか見えないだろう。しかし私たちは神のみに頼る本当の人間らしい道を身をもって世に示すのである。