2024/07/07「弟子に去られてしまう主イエス」ヨハネによる福音書6:60~71 牧師 古屋 治雄

◇イエス様が起こしてくださった奇跡は人間にとって、常識を越え、常識を打ち破るものであり、理解を超えていることがらである。奇跡の記事を、人間の理性や知識でとらえようとする立場があり、また空想や創作であるとして価値のないものとする立場がある。しかし出来事の証言として受け止め、引き込まれている多くの人々がいる。イエス様は私たちを恵みに引き入れる力をお持ちなのである。
◇ヨハネによる福音書は共観福音書と大きく異なり、パンの奇跡のその後のことを詳しく語る。人々は奇跡を体験した後、共感し、讃美したかというと、そうではない。彼らはパンを食べて満腹し、イエス様がさらに新しい奇跡を起こしてくださることを望むのである。イエス様がなしてくださることに期待することは悪くはない。しかし人間の内なる思いをイエス様に投影することになるなら、それは誤りである。まず神様の御心がなされなければならない。
◇大きな力をお持ちのイエス様を、地上の王として担ぎ上げようと考える者もいた。しかしイエス様は「私は天から降って来たパンである」、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」と言われた。この言葉を聞いた人々の価値観の中では、これは受け入れられず、広い意味での弟子たちの多くが離れ去ってしまったのである。
◇ペトロら中心的な弟子たちは「私たちは違う」と言うが、ペトロとて招詞に見たように「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と厳しく叱責される。人間はこのように弱い存在である。
◇だが、イエス様はこのような私たちに先回りして、私たちのために十字架で命を捧げてくださった。そして私たちを贖い出してくださった。生きることができるようにしてくださった。これが聖餐の意味である。人間は皆、聖餐へと招かれている。私たちも多くの人々と共に招かれ、救いの歴史のうちに位置づけられていることを覚えて共に 聖餐に与ろう。