2024/07/14「自分の栄光を求める者たち」ヨハネによる福音書7:10~24 牧師 古屋 治雄

◇この福音書の冒頭で、初めから主イエスとこの世に対立があることが紹介されている。エルサレムでのお働きに対して人々から批判を受けるようになり、ガリラヤに向かわれたが、癒やしや奇蹟を行われた結果、ユダヤ人の反発を買い、殺意さえ被る結果になっている。主イエスはこれまでも一貫して、ご自分が父なる神様から遣わされてきた者であることを語ってこられたが、ここでもまた「栄光を求める」ことに焦点を当てて、問いかけておられる。今日の箇所の前の5章にも「栄光」という言葉が出てきている。新共同訳によるとそこでは「誉れ」と訳されている。「誉れ」とは人からの賞賛であり、人からの名声とも言いうる言葉である。私たちはしばしば神様の栄光を誉め神様に栄光を帰すことができるようにと言葉では言うが、本当にそのことが実現しているかは甚だ疑問である。主イエスが問われるのは、神様の栄光が讃えられているかどうかであるが、私たちは自身の「誉れ」「名声」に引きずられてしまう誘惑と危険をいつも身に負っている者だと思う。
◇「栄光」ということを巡って、共観福音書でも語られている。主イエスが受難の予告をなさった直後に、弟子たち皆を呼んで「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43-44)と言われた。主イエスは、自分の力で自分に栄光を帰そうする如何なる企ても成功せず、最終的には滅びに至るということを示され、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と仰った。ここに、十字架を目指し人に仕えるために来てくださった主イエスが貫かれた生き方が示されている。主イエスは私たちを、神様の栄光をあらわす者として生きることができるように変えてくださる。そのことを覚えて、私たちに与えられた道を歩んで行きたい。