2024/10/6 「因果応報を打ち破る方」 ヨハネによる福音書 9:1~12 牧師 古屋 治雄

◇ヨハネ福音書の主イエスは、ご自分が誰であるか初めからはっきり話しておられる。主イエスは8章58節で「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある』」と言われた。「私はある」は神様がご自分のことを宣言される特別な言葉である。しかしユダヤ社会ではどんな人間でも神様に並ぶ者はいない。この壁を突破しようとする者は神を冒瀆する者であった。

◇主イエスはご自分の言葉が厳しい対立を生むことを承知で神様の御業を顕した。主イエスが「私はある」をどのように示したか、9章に展開されている。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか』」

◇ユダヤ社会には因果応報の考え方があった。人が恵まれているのは神様がその人に祝福を注いでいるからであり、逆に人が困難にあるのは神様がその人に裁きを下しているからだ、という受け止め方である。弟子達の質問は特別な考えではなかった。

◇しかし、主イエスはこれに立ちはだかる。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」そして「神の業がこの人に現れるためである」と。主イエスはこの人の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗うように命じ、この人の目が見えるようになった。主イエスは常に「あなたのうえに神の御業が現れるために」と働いて下さっている。

◇4節で主イエスは「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わなければならない」と言われる。主イエスによって目を開かれた一人である「私たち」の中心に主イエスがおられ、この働きは私たちにも託されている。私たちは主イエスの御業を伝え、主イエスの御業を私たちのやり方で担い、また遣わされていることを覚えたい。