◇主イエスの時代、羊飼いが羊を守る自然環境は厳しく、過酷で危険な生活であった。しかし主イエスがここで語られるのは、自然の厳しさではなく、羊の命を守ろうとしない様々な人間のことを指している。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」(10:1)と、羊の世話をするどころか羊の命を危険にさらし、命を狙う人々のことを狼に重ねて警告している。
◇主イエスはこの話を誰に語っているのか。周りに集まってきた人々ではなく、生まれつき目の見えない人の目を開けたこと(9章)について尋問のように問い詰めるファリサイ派の人々に対して、この羊飼いの喩えを話された。しかし「彼らはその話が何のことか分からなかった」(10:6)。主イエスとユダヤ人指導者たちの接点がなくなっている。
◇神殿奉献記念祭の場面に変わる(10:22)。ユダヤ人指導者たちは一層主イエスに批判の目を向け、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰め寄る。主イエスは「私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである」(25-26)と答えた。ここで「私の羊ではない」とはファリサイ派の人々を指している。
◇では「私の羊」をどう語っているか。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える」(27-28)と語られる。目を開ける奇跡を受けた人に主イエスは「人の子を信じるか」と問いかけ、彼は「信じます」とひれ伏したことを見逃してはならない。この人は主の声を聞き分ける者へと導かれた。
◇私たちの内には「あなたは私の羊ではない」としか言いようのない現実がある。そこから主イエスは「あなたは私の羊だ」と取り戻してくださる。主イエスを救い主と信じることは奇跡である。来週から始まるアドベントで主を迎える日々を歩んでいこう。