2024/12/22 「まことの光が世に来た」ヨハネによる福音書 1:9-18 牧師 古屋 治雄

◇アドベントの元の意味は「来る」である。主が来られる。どこからか。神のもとからである。イエス様はこの世の方ではなく、外側から来られた方である。そして私たちの世界で現実の生活をされた。このことは創造者なる神様の、我々の世界への介入である。神様は「人間の判断、予想というものを一旦やめて、神様の出来事に注目しなさい。そうすることで希望が与えられる。」と言われる。神の子が来られたからである。
◇この世は神様を忘れたかのようである。しかし創造主なる神様は私たちを忘れられることはない。たとえこの世が弱肉強食の世界であろうと、正義と公正の神が変えてくださる。イエス様の時代、ユダヤ人たちはヘロデとローマの二重支配にあえいでいた。イザヤはそれがメシア(王)によって解決されると伝えた。しかしこのメシアは地上の王と同じレベルにはない。もっと根源的なことなのである。神が光あれと言われると、光があった、というような権威ある働きなのである。
◇そのメシアが幕屋を張って、我らのただ中に共に住まわれる。これがマタイの伝えるインマヌエルである。イエス様は決して「私が真理の道を教えよう」とは言われない。そうではなくて「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハ14:6)と言われる。地上の人間にはこのように言うことができないが、主はそう宣言される。このようなことは歴史上かつてなかったことであり、人々は理解できない。そして世をあげてイエス様を拒否するのである。しかし人間の疑問、つまづき、それを主は知っておられる。だからこそ、それら人間のすべてを背負ってイエス様は十字架と向かわれるのである。しかしイエス様はそれで敗北なさらない。光は闇に勝つのである。
◇クリスマスはマリアとヨセフの夫婦に子が与えられたということにとどまらない。救い主がお生まれになったのである。厳粛なことである。この事実をありえないと一笑に付すこともできるだろう。しかしこの事実を、私たちが恵みとして受け取るときに、神様が共にいてくださる(インマヌエル)という事実が起こるのである。主が到来されたことは外側から私たちを変換する。羊飼いたちに光が与えられ、賛美しつつ帰って行ったように、主の到来は希望の光であり力なのである。私たちもその証人として、新たな歩みに進んでまいりたい。