2025/01/12 「死」に働きかける方 主イエス ヨハネによる福音書11:1~16 牧師 古屋 治雄


◇私たちの教会では昨年末から親しい方々を御許に送ってきた。私たちは共にいてくださる主が地上の歩みの中だけ共にいてくださるのではなく、死をも貫いて、召された本人もまた家族にも神様が働き続けてくださっていることを信じる者とされている。私たちの人生は、一日一日「死」に向かって生かされている者であるということが、厳粛な事実である。これは自分の力では整理のつかない難しい課題である。
◇ヨハネによる福音書の11章から12章11節までにマリア、マルタそしてラザロのきょうだいたちのことが伝えられている。ラザロが病に倒れ、二人の姉妹はヨルダン川の向こう岸にいた主イエスに人を遣って助けを求めた。私たち人間的な思いからすると、イエス様はすぐに駆けつけて、死なないように働いてくださる方ではないかと期待する。しかし、この場面で主イエスはラザロを死なないように癒やしの働きを注がれるのではなく、ラザロの死そのものに働きかけてくださる決意をしておられる。
◇主イエスはご自分の身に危険が及ぶことを承知で、ご自分の命が脅かされ殺意が渦巻く中に身を投じておられる。主イエスにとっては十字架に向かうことと同じであり、ご自身の命を捧げてくださることによって、私たち死すべき者がその死を迎えても「死で終わらない」者とされているのだ。私たちがイエス様に結ばれるときに、私たちが永遠の命の中に呼び起こされる。ラザロは、そのようなしるしとして、墓から出てくることができた。しかし、本当に大事なのは、ラザロの死というよりは、ベタニアで一緒に生活していた人々に神の子が私たちに甦りの希望をはっきりと宣言してくださって、地上の歩みを主と共に歩み抜くように、呼びかけられているということだ。死を恐れるのではなく、イエスキリストが私たちの死を死んでくださり、復活の希望に結んでくださっている、その希望を聞き取り、死の恐れから解き放たれて歩むことができるよう願う。