◇イエス様はどんなお方なのか。イエス様がおこなった奇跡とお言葉は多くの人々に驚きを与えたが、時には怪しまれることさえあった。11章でイエス様はマリアとマルタの兄弟ラザロを生き返らせた。そのことが指導者たちの反感をかきたて、十字架に向かう決定的な引き金になったことをヨハネ福音書は伝えている。
◇ラザロの生き返りを見た多くのユダヤ人がイエス様を信じたが、中にはファリサイ派に告げる者もいた。信じた人々もイエス様をどう信じたのか内実が問われる。イエス様がパンの奇跡をおこなった時、人々は「王にするために連れて行こう」(6:15)とした。神の民としての栄光とローマからの解放をイエス様に期待したのである。
◇祭司長たちと最高法院は「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう」(11: 48)と恐れた。大祭司カイアファは「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:50)とイエス様の命を奪わねばならない理由を述べた。しかしローマ帝国の圧政を心配しているようで、実は自分たちの権力の維持を考えていた。
◇しかしイエス様はこの世の権力者たちと力で渡り合うことはしていない。弱い人々のところに赴いて神の恵みの内にあることを伝え、不自由にある人の苦しみを取り除いた。人々がイエス様を通して神様の恵みを知り、喜ぶことを権力者は恐れ、許せなかった。イエス様によって指導者たちの内実が空虚であることが露呈したからである。
◇11:51-52でカイアファの言葉が説明されている。神様の大きな救いの計画の中で、カイアファ
さえ神様は用いられ、イエス様はユダヤの民、そして「散らされている神の子たち」のために十字架への道を歩まれた。そのような歴史を通して、イエス様こそが救い主であると示され、私たちは神の子として生かされている。