◇イエス様は、逮捕され、十字架につけられ、葬られ、復活された。それらのことを貫いて、世にいる私たちを最後まで愛し抜かれた。神様の創造物であるご自分の民に、責任をもって関わってくださった。この世の代表である弟子たちや私たちをも徹底的に愛してくださった。
◇イエス様がペトロの足を洗おうとされると、ペトロは固辞する。彼に対してイエス様は、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる。」(8節)と言われる。動作としては足を洗うことに見えるが、イエス様はペトロに直接触れながら、身を投げ出して、彼の人格全体を洗って、切り離すことのできない形でご自分に結びつけようとしておられる。
◇共観福音書の最後の晩餐の記事に相当するところに、ヨハネ福音書では洗足の記事が位置している。最後の晩餐の記事は、イエス様の体と血潮にあずかることで、私たちがイエス様と一体とされることを示している。一方、洗足の記事は、イエス様がその人格のすべてを注いでくださることによって私たちと、親密に、分かちがたく結びついてくださることを示している。
◇そのイエス様の行動のただ中に、ユダもいる。彼も除外されていない。ユダは、貫徹する神の愛を受け入れることを拒否するこの世の典型である。主を受け入れないこの世や裏切るユダを乗り越えて、神の愛は貫徹されるのである。
◇ユダは、「私の語った言葉が、終わりの日に、私を拒み、私の言葉を受け入れないものを裁く(12:48より)。」という言葉によって裁かれた。他の弟子たちは、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる(7節)。」と言われた言葉に留まることができた。彼らは復活の主に出会って、洗足の出来事を思い出し、イエス様の深い愛が注がれていたことを知るのである。私たちも主に出会う者とされ、主を伝え、分かち合う者とされている。イエス様の愛は私たちにも生きている。
