◇水曜日の祈祷会で日本基督教団信仰告白を学んできた。それは聖書の御言葉の凝縮であり、私たちの信仰の全体像である。では、私たちは、何を信仰の中心とすべきなのだろうか。それは聖書である。宗教改革の流れを汲むプロテスタント教会は、「聖書のみ」を掲げてきた。それは神様が語りかけられる御言葉である。だから私たちは、主日の礼拝以外の集会でも聖書を開き、神様の御声を聞くのである。日本基督教団生活綱領も、日々、聖書に親しむことを勧めている。
◇聖書は複雑な書物である。キリスト教学校のみならず、教会においても、私たちはその内容を理解しようとして、「勉強せねば」という思いになりがちである。だが、聖書に対する私たちの姿勢はそれでよいのだろうか。聖書は「恵みの上にさらに恵みを与えられた」(16節)と言う。初めの恵みは旧約聖書全体である。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ……金よりも、あまたの純金よりも好ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(詩編19)と歌われているように、旧約聖書の言葉は、私たちにとって慕わしい言葉なのである。それに加えて、神様は私たちに更なる恵みを与えられる。「言は肉となって、私たちの間に宿った」(14節)からである。抽象でもなく、無人格なものでもなく、肉をとり、人格をとり、人となって来られたイエス・キリストが、神様の栄光を現わされた。私たちは、その出来事に目を向け、耳を傾けることで初めて神様の栄光が解るのである。
◇「宿る」という言葉は「天幕を張って住む」という言葉である。旧約の民が約束の地を目指して荒れ野を旅した時、神様の幕屋も民と共に移動した。神様が民と共に住んでくださったのである。私たちの地上の歩みにはなお、困難がある。しかし、私たちの歩みは、インマヌエルなるイエス様の恵みの支配と守りの中にある。私たちの思い煩いや重荷をこの方に委ねて、今年のクリスマスを迎えよう。