◇多くの人、国が求める平和とは、困難のな い幸せな暮らし、戦争や争いのない状態である。自分が世界の中心となる自己中心的で表面的な私にとっての平和である。
◇聖書が言う平和とは、神様と人との関係が回復、和解したこと。人間が創られた時の神様との極めて良かった関係、完全な姿に戻ったこと。これは神様の究極的な祝福である。 罪の問題が解決しなければ、人と人との間の平和は永遠に訪れないと聖書は語る。
◇イエス様は人間が求めるような平和をもたらすために来たのではない。むしろ剣をもって、私たちの罪と戦う(34 節)と宣言する。 この剣は、このような表面的な平和、私にとっての平和を打ち壊して、神様と人との間の平和、この究極の祝福をもたらすもの、「霊の言葉、神の言葉」(エフェソ 6:17)である。
◇神様の平和は実現するもの、作り出していくものである。このプロセスを、私達人間はイエス様と共にたどっていくものである。この過程において、家族の間に、敵対や分裂が起こるが、神の言葉が語られ続けていくうちに、イエス様ご自身が働いてくださることによって、反対していた人々が福音を信じるように変えられていくのである。神の言葉によって生じるこの対立、分裂は、人々が神様に立ち返る、本当の平和を実現するための一環に過ぎない。この過程は伝道の期間、救いの期間、恵みの時である。
◇神様を第一にすることをイエス様は言われる(37 節)。肉の体を持つ私たちにとって、 イエス様の御言葉は大変厳しいものである。 それは、私たち自分の十字架である。しかし、イエス様はこの剣を私たちに投げ込まれる前に、この剣をご自身に向けられた。私たちは自分の十字架を担う前に、イエス様が、 私たちの罪、重荷、痛みをすべて背負って十字架で死んでくださった。罪と死に勝ち、三日目に復活し、私たちが歩む道となってくださった。私たちは十字架の恵み、神様の愛と憐れみによって、罪が赦され、命を得て、神の平和の道に立たされた。このことを覚えつつ、イースターを待ち望みたい。