2023/07/16「私たちに与えられている絆の力」コリントの信徒への手紙一 16:13~24 牧師 古屋 治雄

◇教会の時は永遠ではない。教会の時にも終わりが来る。それは教会が解体、解消されるということではない。神様の救いの歴史が完成され、信仰を与えられた者が永遠の命に生かされる、その時である。パウロは「目を覚ましていなさい」という短い勧告によって、キリストがいよいよ再臨され、神様が主の群れとしての教会の歴史を完成してくださり、私たちが全く変えられ、永遠の生命に入れられる、その時をしっかり待望するようにと、コリント教会の人々に呼びかけている。

◇しかし、「終わりの時」を待望することと、具体的な日常の生活を送ることとは、分離されず、しっかりと結びついていなければならない。これまで多くの人の絆の中でコリント教会が支えられてきたように、この後もコリント教会は、指導的な立場にある人々を受け入れ、具体的に支えつつ、「終わりの時」を待望する群れとして歩みを進めなければならない。パウロはそう勧めているのである。

◇パウロは、「主よ、来たりませ」、(マラナ・タ)の言葉を用いて、再臨を待望するように勧める。一方で、「呪われよ」との強い言葉は、神様の恵みを否定することがあってはならない、神様の恵みからそれてはならない、祝福にしっかり与りなさい、というパウロの熱い思いから出ている言葉である。

◇パウロはこの手紙を「私パウロが」、「私の愛が」という言葉で結ぶ。使徒パウロは、自分の全存在をかけて、コリント教会が「終わりの時」を待望し、希望をもってしっかり立ち続ける群れとなるようにと呼びかけている。

◇この言葉は、今の私たち、100周年のただ中にある阿佐ヶ谷教会に向けられた呼びかけでもある。「終わりの時」が私たちに用意されていることを受け止めつつ、なすべきことをなし、一つひとつを神様の栄光を現すためになしていく。私たちも多くの絆によって結ばれていることを覚えつつ、「御国が来ますように」との祈りを一層、力強く祈る群れとして、歩み続けたい。