◇イエス様はその人の病んでいる部分だけではなく、その全人格を見てくださって、圧倒的なお働きを注がれる。イエス様の働きを受ける一人ひとりは再創造されている。
◇5章9節でイエス様に癒された男は、今まで横たわっていたベトザタの池を後に、床を担いで歩き始める。その様子を見ていたユダヤ人たちは「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」と声をかける(10節)。床を担ぐことを運搬の仕事と見なした。男は「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(11節)と答えたが、ユダヤ人たちはこの人が病を負っていたことに何ら関心を示さず、安息日に禁じられた行為にのみ注目した。病気で苦しんできた人が癒され、解放されたことを喜ぶことができない社会の、悲しい現実を露呈している。社会全体が病んでいる。イエス様はその只中に神の御子としてこられ、大きな困難と弱さを背負って生きている人々にその御業を豊かに注いでくださっている。
◇神様の創造の御業は7日目に全て祝福されて完成した。安息日には普段の生活を止めて神様に心を向ける。しかしイエス様の時代には、何もしないことが自己目的化してしまっていた。
◇その後、癒された人と再び出会ったイエス様は「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」(14節)と声をかけられた。イエス様を信頼して生きるようにという勧告として聞く事ができる。しかし「この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」(15節)。イエス様に対する感謝と信頼より、ユダヤ人たちに迎合したのかもしれない。イエス様はこの出来事によって窮地に追い込まれる。しかし何もしないのが安息日だという既成概念を打ち破り「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(17節)と社会の一番弱いところに恵みと祝福を注いでくださる。私たちの社会と私たち一人ひとりが神様の祝福を喜んで生きるよう歩んでいきたい。
(要約:打方 真樹)