◇エルサレムでの病人の癒しに続いて、ガリラヤでもイエス様は病人を癒されたであろう。群衆は、イエス様が自分たちの所でどんな奇跡をなさるのかと、イエス様に注目していた。パンの奇跡は、4つの福音書すべてにあるが、ヨハネ福音書の特徴は、これが徹底してイエス様主導で行われている点である。まず、フィリポに問いかけられる。彼は200デナリオンでも足りないと答える。アンデレもわずかなパンと魚では役にたつまいと、それが不可能であると言う。イエス様は弟子たちがどう考えるか知っておられた。イエス様はわずかなパンと魚を増やして、手ずから配られ、群衆の空腹を満たされた。
◇イエス様から奇跡の恵みを受け、感謝を捧げ、主をたたえた人々が数人聖書に出て来る。だが奇跡によって満たされた人々は、逆に彼らの欲望を膨らませてしまうのがほとんどである。イエス様に期待することは悪いことではない。けれども私たちは、しばしば、自分の願望をイエス様に投影してしまう。そうではなく、イエス様の御心が私たちに現れなければならないのである。この、人間の思いと、イエス様の御心のズレは、6章の末部まで続く。
◇この奇跡が行われたのが過ぎ越しの祭りの少し前であったことが4節に示されている。これは暦の上の問題ではない。イエス様が与えられたパンは、イエス様の体、イエス様の存在そのものである(6:48以下)。パンの奇跡がこの祭りの前に行われたことは、イエス様が過ぎ越しの犠牲として捧げられることを示している。
◇御父の御心を行い、成し遂げることがイエス様を活かす(4章31節以下)のである。そのことは、イエス様によって神の子とされた私たちにも及ぶ。神様の御心を知り、行うことは、私たちをも生かすのである。イエス様は6章の中で「私は、天から降って来た生ける命のパンである。」と繰り返される。それで私たちは生きるのである。喜びをもって聖餐に与ろう。
(要約:太田好則)