2024/06/09「永遠の命にいたる食べ物のために」 ヨハネによる福音書 6:22~33  牧師 古屋 治雄


◇主イエスはパンの奇蹟を巡って、私たちが生きていく上で必要な食べ物へと話しを続けておられる。自分たちにも奇蹟を起こして欲しいと願い、カファルナウムまで主イエスと弟子たちを追って来た群衆に対して、主イエスは「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と、辛辣ともいえる語り方をなさっている。神様の介入を無視して、ただ「満腹したから」主イエスについてきただけだ、と仰っているのだ。
◇主イエスは、奇蹟の出来事が空腹を満たすパンのことに留まってしまうのではなく、私たちが神様の命に生きることができる「命のパン」へと話しを発展させておられる。しかし、主イエスはお腹を満たすパンのことを否定しておられるのではない。もしそうであるなら、人々のためにパンの奇蹟を行う必要はなかっただろう。主は、奇跡を行われて尚、弱き群れ一人一人に呼びかけておられるのだ。私たちの地上の人生の本当の意味を問いかけておられるのだ。このことは昔も今も現実的な課題であり、私たちが命を与えられて生きることの永遠のテーマである。27節では大きな転換が呼びかけられている。生かされている私たちが何を為すか、何のために働くのか、それは「永遠の命に至る食べ物のために働く」ことだと語っておられる。
◇私たちは、イエス様に辛辣に批判されたあの群衆の中にいる一人一人だと認めざるを得ない。しかし主イエスは、私たちが神様の命に生きる者とされているということを、この時点ですでに明らかにしてくださっている。私たちは二千年の教会の歴史を通してそのことをはっきりと知ることができ、その恵みに与り続けていることを知らされている。「人の子」(主イエスご自身)が私たちのために食べ物となってくださり、その食べ物を私たちに与えてくださっているのだ。この永遠の命に至る食べ物をいただいている者として、新たな歩みへと進んでまいりたい。
(要約:金井恭子)