◇私たちの社会は法律によって治められている。主イエスが地上で歩まれたユダヤ社会にも法律があり、律法を軸にして社会が動いていた。律法は人間ではなく、神様が神の民にこのように生きなさいと命じられたと信じてできた法律である。この律法に従って生きるようユダヤ社会を指導する立場にあったのが祭司長たちやファリサイ派である。
◇今日の7章まで、主イエスの言行はユダヤ社会に大きな波紋を投げかけた。主イエスのことを「この人は本当にあの預言者だ」(7:40)とみる群衆や、祭司長側の下役たちの中にも「今まで、あの人のように話した人はいません」(7:46)と尊敬の気持ちを持つ者が現れたことに指導者たちはいらだった。「律法を知らないこの群衆は、呪われている」(7:46)という言葉さえ出てきたほどである。
◇指導者たちが主イエスを捕らえようとする中、イエス様を訪ねたことのあるニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7:51)と発言した。しかし指導者達は「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者が出ないことが分かる」(7:52)と律法を自分たちに都合よく強引に解釈した。
◇ニコデモは不利な立場に追い込まれながらも律法の中に神様の御意思を知らされ、勇気を持って神様の前で正しい声を挙げた。律法を知ることは神様の御心にふれ、畏れと感謝が湧き出で、さらに神様の恵みと真理に応答することに他ならない。
◇律法の本来的意味を主イエスご自身が福音書の中ではっきり語っている。「もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いたからである」(5:46)と。私たちは主イエスによって恵みと真理を与えられている時代に生かされていることを共に感謝しよう。