◇毒麦は、穂が出るまでは小麦に非常によく似ていて、見分けるのが難しい。種を分けることも難しい。人間がこの種を食べると、中毒を起こし、死に至ることもある。根が小麦の根と絡んで、毒麦を抜こうとすると、小麦も抜いてしまうことがある。さらに殺虫剤の成分を出して小麦の成長を妨げる。良い種を蒔いたはずの畑に毒麦を見つけた僕が主人に「毒麦が入り込んでいます。抜いてしまいましょう。」と進言する。それが常識的な対処法である。ところが主人は、その提案を退ける。「刈り入れの時まで待て。最後の最後まで待って見極めてから、束ねて焼いてしまおう。」と言う。この主人の言うことは常識を超えている。
◇神様がこの世界を造られた時、それは極めて良かった。悪はなかった。ところがどういうわけか、この世界に悪が存在する。私たちは悪を排除したいと願う。早く排除すれば純粋な、正しい世界になる、と単純に考える。私たちが誤りを犯しやすいのは、「毒麦を引き抜いて、捨ててしまいましょう」という僕たちのように、「あんな人、教会からいなくなればいい」と思う時である。神様が忍耐しておられる時に、自分が神様の玉座に座って、自分の価値観で人を裁いてしまう、それが最大の不信仰なのである。神様の位置につくことができるのは神様だけである。神様をきちんと神様としている限り、私たちは悪魔の子になることはない。
◇全能の神であれば、毒麦を小麦に変えることがおできになる。悪意の人を善意の人に変えることができる。私たちは「あの人を神様に従う人に変えてください」と祈ることができる。エバに近づく蛇のように悪魔は、私たちが無警戒になるように仕組む。一見おいしそうに見えるもの、一見良さそうに見えるもの、これが危険である。神様に尋ねて、「この提案、受け入れて良いのでしょうか?」としっかり祈って、答を待つべきである。すべてのことを、神様との祈りのうちに置いて、進めて行こう。
ていることを共に感謝しよう。