◇福音書には、イエス様が病や障がいを癒された記事が多くある。その多くで、癒された人は喜
びにあふれ、時に躍り上がるのである。しかしヨハネ福音書では、喜べない、イエス様を賛美し
ない例が見られる。特に今日の箇所では、癒された人が町から追い出されたと記されている。こ
れはユダヤ社会に特有なことではない。ヨハネ福音書の冒頭で、イエス様は見える姿でこの世
に来てくださったが、人の世はイエス様を受けいれなかったと書かれている。人間は皆、見え
るイエス様を拒否した。神様の深いご意思を理解しようとしなかったのである。
◇病の人々、障がいを負う人々の苦しみは、身体的な不自由に留まらない。因果応報の思想
にとらわれた人々の原因さがしもまた、当事者の心を苦しめるのである。イエス様の起こされる
奇跡は、私たちの合理的な理解を越えて働く。説明のつかない事柄に出会った時、ユダヤ人
たちは事実を受け止めることができない。否定しようのない事実を圧殺し、言い返し、果ては当
事者を社会から切り捨ててしまうのである。
◇癒されたこの人は、視力を回復された。それだけではない。それが誰の力なのか、その理解
へと招かれ、ついにメシヤであることの確信を与えられたのである。しかし、神をはっきりと認識
する責任を負うはずのユダヤ人指導者をはじめ、周囲はそれを認めない。
◇聖書はユダヤ人指導者だけを批判しているのではない。イエス様をどう見ているのかという
問いを、私たちにも投げかけている。主は十字架に向かわれる。私たちはそれが何のためであ
るか、理解しようとせず、へりくだることができない。ここに見える、見えない、の逆転が起こる。
見えていると主張する者はつまずく。神の御心の奥底を知らなければ私たちは生きることがで
きない。御心を知ることができるように、イエス様は見える姿で地上に来てくださり、十字架で死
んでくださり、復活してくださった。そして私たちに新しい生き方ができるように力を注いでくだ
さっている。