◇ヨハネ福音書は、ナルドの香油の出来事の行為者を、ラザロとマルタの姉妹マリアであるとする。この出来事に先立ち、イエス様はラザロを墓の中から生き返らせてくださった。マリアの心の中にはイエス様に対するあふれるほどの感謝があった。常識では考えられない出来事に、周囲は大変な騒動になっている。だがイエス様の御心はすでにそこにはない。ご自身が向かうべき道へと視線を移しておられる。
◇イエス様への殺意が渦巻く中で、香油の出来事があった。マルコ、マタイの両福音書では、油はイエス様の頭に注がれる。メシアとしての油注ぎである。ヨハネ福音書では、マリアはイエス様
の足に香油を塗り、髪でその足を拭う。イエス様への愛と信頼を臆面もなく示したのである。イエス様はマリアの行為を埋葬準備のためである、と言われる。つまりイエス様は、マリアの行動を、メシアに油を注ぐ行為でもなく、単に親愛の情の表現でもなく、イエス様が自ら死へと向かわれ、その死をマリアが受け止めたからこそ、香油を注いだのだと見ておられる。
◇マリアの行為に対し、人々に仕える用い方があるのではないか、という考えは無理もない。私たちはしばしば、人に仕えることと、神様に仕えることの間で葛藤を経験する。しかし、単純に二者択一と考えるのは御心ではない。イエス様は私たちのために「埋葬」されることを選ばれ、私たちに仕えてくださるために「死」へと進まれたのである。マリアが自分の髪でイエス様の足を拭った行為は、埋葬の準備にとどまらない。弟子たちの足を洗われたイエス様の姿と重なる。私たちは主に仕え、互いに仕えることへと招かれている。
◇主は「貧しい人々はいつも一緒にいる」と言われ、私たちに具体的な行動を求めておられる。だが私たちの出発点は人道的な立場にあるのではなく、救い主イエス・キリストが私たちのために死なれたことにある。イエス様の十字架の死を覚えて、互いに仕え合う者となることが求められているのである。