2025/03/23 「人を裁き、かつ救う神」ヨハネによる福音書12:44~50 牧師 古屋 治雄

◇私たちの日々の生活のなかで「キリストにお仕えする」或いは「主の教会にお仕えする」という言葉がもっ◇福音書をキリストの伝記と言う人もいる。偉人伝は生まれてから生涯の終わりまで満遍なく語るが、4つの福音書は主イエスの地上での生涯の終わりにスポットをあてる。ヨハネ福音書は全体の半分以上で主イエスの最後の一週間を伝えている。福音書はイエス様の何を伝えたかったのか。

◇今日の箇所は主イエスの叫びで始まる。それは御自身の使命の一番大事な事柄であった。今まで主イエスは「私の時はまだ来ていない」(7:6)と語られてきたが、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と言われた。「私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た」(12:46)という主イエスの言葉を、私たちの生活の全領域を覆う恵みの言葉として聞くのである。

◇暗闇に居続けると闇が当たり前と思い込んでしまう。主イエスは神様の恵みの光を私たちに注ぐが、私たちは闇が暴かれるのを恐れる。しかし主イエスは「私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(12:47)と言われる。

◇使徒パウロは「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」(ローマ2:6)と語る。私たちは神の裁きと主イエスの裁きをどう捉えたらよいのか。ヨハネ福音書で主イエスは「父は誰も裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」(5:22)と言われた。父なる神様は本来、御子を通して私たちを裁くはずの方であった。しかし御子が世に裁かれ十字架で死なれた事を通して、信じる者を闇から救い、神の光の中で喜びと感謝をもって生きる者へと変えてくださったのである。

◇レントの期間は、イエス様を十字架につけた私たちに、世の本性が明らかにされる時である。イエス様を死に追いやった力が最終的な力ではないと明らかにされる。闇から光へ、滅びから永遠の命へと招かれて、私たちはもはや闇の中で歩むのではなく、圧倒的な神の力で歩むことができるのである。と交わされるようになって欲しいと思う。「教会にお仕えする」というのは教会と組織に仕えることでも牧師や伝道師に仕えることでもない。「教会に生きていますキリストにお仕えする」という意味なのだ。私たち一人一人の働きが拙いものであっても、主は喜ばれる。その奉仕が神様を賛美する礼拝に繋がるようにと願う。